Chapter 629 『今』と『ここ』

時間の概念があるゆえに、本来の拠って立つところから感知できていないわたしたち人間であります。
制御不可能な時間に振り回される人生を送ることになるのですから、時間がわたしたち物体(三次元立体物)の上位に立つ四次元要因になり、四次元時空間世界が展開されることになる。
過去や未来に思いを馳せながら生きているのが一般のわたしたちであるのですから、時間に制御(支配)されていると言っても仕方がありません。
過ぎ去った過去や、未だ来ぬ未来をどうすることもできないのに、どうこうしようとするのは不可能なことであって、その結果ジレンマに陥る。
不可能なことを可能にしようとすることによって陥るジレンマを四苦八苦と総称しているのであります。
従って、時間の概念が四苦八苦の元凶になっていることは間違いのない事実であります。
時間の概念が湧き上がるのはどういう時かと申しますと、時間を意識している時であります。
時間を意識するということは、五感と第六感である「想い」というセンサー(アンテナ)が時間に向いていることに外なりません。
五感や「想い」が機能しているということは、顕在意識が働いているということですから、顕在意識が時間を意識していることであります。
わたしたちの実在は、『今、ここ』にいます。
『今、ここ』はハイゼンベルグの不確定性原理によって、同時に確定することができない位置です。
つまり、『今』にいるなら『ここ』にはいないし、『ここ』にいるなら『今』にはいない。
厳密に言えば、『今』にいるということは時間軸に立っているということであり、『ここ』にいるということは空間軸に立っているということで、時間軸と空間軸は交差していないということであります。
アインシュタインが主張する、時間が四次元要因であれば、時間軸と空間軸は交差する筈です。
空間軸の原点である『ここ』に立っていれば、時間軸を五感で感知することになり、まさしく時間に制御される四次元時空間世界が展開されます。
『今』はまさしく過去・現在・未来と流れていく時間の現在となるだけであり、過去や未来に思いを馳せて四苦八苦する人生が待ち受けているのは当然であります。
『今』も過去や未来の一部としての現在に組み込まれてしまうのです。
『今』とは過去・現在・未来という流れる時間とは無縁(異次元)のもの、すなわち虚時間(Imaginary Time)という、空間軸と同じ水平線上にある、わたしたちが所謂時間と称している実時間(Real Time)軸に対して垂直の軸であり、水平軸と垂直軸は交差していないのです。
感知することは実在ではない、実在するものは感知できないと申しました。
空間軸の『ここ』に立って感知するのは時間軸であり、それは実在する『今』ではありません。
すなわち過去・現在・未来という流れる(運動する)実体のない概念だけの時間、つまり実時間(Real Time)であります。
実在する『今』とは、本来の拠って立つところであり、否応なしに立っているところである、実体のある時間つまり虚時間(Imaginary Time)であります。
実在する自己が拠って立っているところは、『今』であるのです。
すなわち、「わたし」であります。
実在しない自己が拠って立っているところが、『ここ』であるのです。
すなわち、「私」であります。
時間を四次元要因とする四次元時空間世界をつくり上げているのは、アインシュタインではなくて、実在しない偽者の自分である『私』であったのです。
アインシュタインはそんな偽者の人間が住む世界を支配するのが、時間を四次元要因とした四次元時空間世界だと言いたかったのでしょうか。
『今』という時間軸の原点に立っていることを自覚できれば、そこから感知できる世界は空間軸の世界であり、過去や未来は空間軸の原点である『ここ』ではないので、どうすることもできないのですが、現在であれば少しジャンプすれば、本来交差していない『ここ』でどうこうすることができるわけです。
『ここ』とは、過去・現在・未来と流れる時間の空間軸を、時間軸の原点である『今』に投影した(ジャンプ)した位置であって、はじめて、『今、ここ』が実現でき、どうしようもないことが、どうにでもなる、つまり不可能なことがすべて可能になるのです。
時間軸から感知できるのが空間であり、空間軸から感知できるのは時間であるのです。
何れにしても、実在するものは感知できないのであり、感知できるものは実在しないのです。
『今』に立っているわたしたちが、感知できる空間の世界はやはり映像に過ぎないのであります。