Chapter 633 質的時間と量的時間

わたしたちは時間をも量の対象として生きてきたようです。
質と量は次元の違うものを意味します。
次元が同じものであれば、量の程度の違いで表現できるのに対して、次元が違うものを量の程度の違いで表現することはできないので、質の違いだということになるわけです。
次元が違うということは何を意味しているのか。
数学で言うところの座標軸を考えてみればよくわかります。
二次元座標軸はX軸とY軸が原点でお互い直角に交差する二本の軸を言います。
三次元座標軸はX軸とY軸とZ軸が原点でお互い直角に交差する三本の軸を言います。
アインシュタインが主張する四次元世界は空間プラス時間の時空間の世界でありますが、X軸・Y軸・Z軸の三次元座標軸が空間世界を表現するのに対して、T軸という時間軸を更に加えたものです。
従って、四次元座標軸はX軸とY軸とZ軸とT軸が原点でお互い直角に交差する四本の軸を言います。
冒頭で申しましたように、次元が違うということは質の違いであって、量の程度の違いは同じ次元の話です。
数学的に表現しますと、量の違いは同じ座標軸の話であるのに対し、質の違いは直角に交わった他の座標軸の話になるわけです。
アインシュタインが時間を四次元要因と主張したことは、時間軸であるT軸も、空間軸であるX・Y・Z軸に原点でお互い直角に交差すると主張したと言い換えてもいいでしょう。
ハイゼンベルグが、“すべての物質の位置と運動量は同時に確定できない”と主張した不確定性原理では、空間軸であるX・Y・Z軸は原点でお互い直角に交差するけれど、時間軸であるT軸は空間軸と原点で直角に交差しているように見えるけれど、実は交差していないと主張したと言い換えてもいいでしょう。
方向性としては直角であるのですが、交差はしないというわけです。
同じ世界−幾何学的に言えばユークリッド空間−であれば、交差しないということは平行であることを意味していますが、違う世界−リーマン空間−つまり次元の違う世界では平行であろうがなかろうが、直角であろうがなかろうが交差することはあり得ないのです。
ハイゼンベルグの説では、空間軸と時間軸は直角ではあるが交差することはあり得ないことになる。
つまり時間が三次元の一段上の四次元にはなり得ないということになります。
しかし時間軸は空間軸に対して直角である。
一方、わたしたちの日常生活においては、時間を知らず知らずのうちに空間と同じように量的に捉えています。
人生80年。
桃・栗三年・柿八年。
過去・現在・未来。
といった具合です。
空間と同じ世界つまり同じ次元で考えているから、過去や未来に思いを馳せるわけです。
過去や未来とは時間ではなくて空間であることに気がつかなければなりません。
記憶は時間ではなくて空間(景色・音・匂い・味・肌触り・心)であると申しました所以であります。
空間と時間を同じ次元で考えている、つまり量的に捉えていることに外ならないわけです。
量的に捉える時間を実時間と言うのに対して、質的に捉える時間を虚時間と言ってもいいでしょう。
わたしたちが実時間として捉えている所謂時間は実は空間であって、本当の時間ではなかったのです。
本当の時間は空間軸に直角である虚時間軸であるのです。
アインシュタインの説であっても、ハイゼンベルグの説であっても、交差するかしないかの違いはあっても、直角であることは同じであるのに、わたしたちは時間を質的に捉えずに量的に捉えているのは間違っていると断言してもいいでしょう。
四苦八苦の人生の原因はここにあるのです。
同じ80年の人生を送っても、人によって全く違ったものになる。
その違いは量的程度の違いなのか、質的次元の違いなのかをはっきりさせなければなりません。
使命を知り、使命に生きるということは、時間を質的次元の違いと捉えた生き方をしていることの証左であります。
時間を量的程度の違いと捉えた生き方をしているということは、使命を知らず、使命に生きていないことの証左であります。
時間売りをして生計を立てている生き方は、いくらこの世的成功をしても、使命を知り、使命に生きているとは言えないのです。
近代・現代社会は、量的時間の社会であり、資本主義の中での自由主義社会と社会主義社会であり、ゲゼル・シャフト(利益社会)であり、支配・被支配構造の国家権力のある社会であり、不条理な税のある社会であり、世襲・相続の横行する社会でありました。
高度自由社会とは質的時間の社会であり、開放型自由社会主義が基本の考え方つまり真の共産主義の社会であり、新ゲマイン・シャフト(新共同社会つまり共生社会)であり、国家のない社会であり、税のない社会であり、世襲・相続のない社会であります。