Chapter 639 人間が創った神・「時間」

宗教戦争という言葉があるように、戦争の最大の理由の一つに宗教間の相克問題が横たわっていることは紛れもない事実であります。
戦争とは個人同士の喧嘩ではなく、国家間の喧嘩なのですから、宗教問題が個人の問題ではなく集団の問題になっているわけです。
ところが世界の宗教を俯瞰してみますと、集団救済を教義とするユダヤ教と儒教以外はすべて個人の救済を教義としたものです。
十字軍遠征以来長きに亘り戦争を続けてきたキリスト教圏とイスラム教圏。
この二つの宗教は兄弟宗教であり、且つ個人救済を教義としておきながら、骨肉の争いを今なお続けているのです。
集団救済を教義とするユダヤ教と儒教間であれば、戦争という国家間の喧嘩も有り得るが、個人救済を教義とする宗教間の戦争は有り得ない筈です。
拙著「日本語が壊れていく」で紹介しましたが、竹山道雄氏の「剣と十字架」によると、1480年から1941年までの450年の間に起きた、各国の戦争の回数は、イギリスが78回、フランスが71回、ドイツが23回、日本が9回であり、国の歴史が200年余りのアメリカに至っては現在まで、およそ5年に一回の頻度で戦争をしている野蛮な国であるように、キリスト教圏の国が圧倒的に多いのです。
一方、日本においても、国家間の戦争は1941年までの9回に太平洋戦争を加えた10回と、キリスト教圏の国に比べて極めて少ないように見えますが、実はそうではない。
国内での戦争つまり戦(いくさ)となると枚挙に暇がない。
「乱」、「役」といった言葉で表現されている歴史的事実は数え切れない程あります。
キリスト教圏だけが野蛮だと言い切れるのではない。
戦争の最大の理由のもう一つに経済問題が横たわっていて、真実の理由は経済問題にある場合が殆どだと言っても過言ではありません。
しかし戦争の当事者となると、国家を司る政治が表舞台に登場するわけで、最終的には、戦争の最大の理由は政治問題に帰結する。
結局の処、宗教も経済も政治の一手法にしか過ぎないということであります。
政治とは政(まつり)事で治める、つまり支配者が被支配者を支配する手法であるわけで、支配・被支配の二層構造ではない、一層社会であれば政治は必要なく、延いては戦争も起こりません。
独裁国家が他国と戦争を起こすことで、国内の意識を統一し、支配・被支配構造を強固にする手法を取るのは、国家間の戦争であっても、結局の処、自国の支配・被支配構造を強固にするための方便に過ぎないことを、それぞれの国民は肝に銘じておくべきです。
宗教は政治の手先に過ぎない、若しくは経済的理由が水面下に潜んでいる。
宗教はビジネス以外の何者でもない所以であります。
宗教法人という言葉自体が、宗教はビジネスと断言しているではありませんか。
支配・被支配の二層構造社会がすべての根源であります。
支配者がなぜ被支配者つまり奴隷を必要とするのか、それは臆病さが原因であります。
他の生き物の世界では、警戒心と呼ばれている野生の本質が、自然社会から逸脱して以来、人間社会では臆病という名に変わったのです。
他の生き物が持っている警戒心は、過去の記憶に基づく学習能力の発露であって、潜在意識にまで落ち込んだ結果、大脳による思考形態ではなく、身体の各器官による反射神経になっているのに対し、人間の警戒心は大脳新皮質で知識として止まった結果、未来への思考回路ができ、将来不安に基づく臆病さに変質してしまったのです。
他の生き物も過去の記憶を持っているのですが、それは時間という名札による記憶として残っているのではなく、反射神経として残っているために、時間の観念がないのです。
警戒心は時間の観念がないのに対し、臆病は時間の観念を持っているのです。
野生の警戒心からは悩みや取り越し苦労は生じませんが、時間の観念を持つ臆病が悩みや取り越し苦労を持ち込むのです。
時間の観念がない野生の動物は、『今、ここ』を生きているのに対し、時間の観念を持つ人間だけが、『今、ここ』に生きることができずに悩み、取り越し苦労の人生を送っているのです。
アインシュタインは「時間」を、三次元立体空間に存在する人間の上の四次元要因に位置づけてしまった。
「時間」こそ、目に見えない「神」の正体であり、宗教に不可欠の「神」の存在性は、「時間」によって確立されたと言ってもいい。
宗教が創った神は、支配・被支配の二層構造社会の方便であり続けてきたのです。