Chapter 644 虚時間の物指し

老いているか若いかは、年齢の問題ではなくて、虚時間の高みの問題であると申しました。
虚時間とは質的時間であり、わたしたちが普段何気なく呼んでいる昨日(過去)・今日(現在)・明日(未来)で代表され、0秒前・0秒後、三秒前・三秒後、三分前・三分後、三時間前・三時間後、三日前・三日後、三ヶ月前・三ヶ月後、三年前・三年後、三十年前・三十年後・・・・・生れた直後・死ぬ直前で表現される時間(実時間)とは全く違うものです。
虚時間を理解するにはいくつかのポイントがある。
一つ目のポイント。
時間は概念であって、姿かたちある実体ではない。
二つ目のポイント。
時間は概念であるから客観性がその本質ではなくて、主観性がその本質であるからして、人によって捉え方が千差万別である。
三つ目のポイント。
実時間は量的時間であり、昨日(過去)・今日(現在)・明日(未来)で代表され、0秒前・0秒後、三秒前・三秒後、三分前・三分後、三時間前・三時間後、三日前・三日後、三ヶ月前・三ヶ月後、三年前・三年後、三十年前・三十年後・・・・・生れた直後・死ぬ直前で表現されるのに対し、虚時間は0秒前・0秒後の現在つまり過去と未来に繋がっている現在から、過去と未来に繋がっていない、『今、ここ』の『今』にジャンプした所からはじまり、高い低いで表現される質的時間であるわけで、『今』に立つことが前提条件である。
四つ目のポイント。
実時間は、昨日(過去)・今日(現在)・明日(未来)という空間軸に自分を置き、時間軸を眺めた概念に対し、虚時間は、『今』という時間軸に自分を置き、空間軸を眺めた概念である。
つまり実時間は時間の単位(0秒前・0秒後から生れた直後・死ぬ直前まで)が物差しであるのに対し、虚時間は空間(縦*横*高さ)の単位が物差しである。
五つ目のポイント。
実時間の概念を持つ自分は、複数の「私」であるのに対し、虚時間の概念を持つ自分は、本当の自分である唯一無二の「わたし」である。
六つ目のポイント。
実時間の概念を持つ複数の「私」は、自分というアイデンティティーを持つ部分観の自我意識(エゴ)であるのに対し、虚時間の概念を持つ唯一無二の「わたし」は自分というアイデンティティーを持たない全体観の自分である。
七つ目のポイント。
実時間の概念を持っている自分が偽者の「私」であり、虚時間の概念を持っている自分が本物の「わたし」である。
この七つのポイントを常に念頭に置いて自分を見つめると、自己客観視することができるようになります。
自己客観視する高台の位置こそが虚時間の物差しが指す目盛りであって、高ければ高いほど、昨日(過去)・今日(現在)・明日(未来)で代表され、0秒前・0秒後、三秒前・三秒後、三分前・三分後、三時間前・三時間後、三日前・三日後、三ヶ月前・三ヶ月後、三年前・三年後、三十年前・三十年後・・・・・生れた直後・死ぬ直前という時間の名札で示された空間(景色)を広く一望できるのです。
つまり虚時間とは一望観の拡がり度合と考えればいいのです。
0秒前・0秒後や三秒前・三秒後や三分前・三分後や三時間前・三時間後といった目先に囚われた一望観なのか、三十年前・三十年後・・・・・生れた直後・死ぬ直前といった千見の一望観なのか。
生れた直後から死ぬ直前までの一望観とは、まさしく自己の一生を貫いた人生観であり、『今、ここ』の自己の事実を積み重ねた自己の真実を知ることができるのです。
実時間の世界は三次元空間の量的世界観であり、虚時間の世界は四次元時空間の質的世界観であると言ってもいいでしょう。
虚時間の概念を持った生き方をしない限り、自己の真実の一生つまり使命を知ることはできません。