Chapter 647 神との対話

神と対話できるのが聖職者たる所以であるからして、わたしたち人間はみな聖職者たり得ると言えます。
何故なら神とは他ならぬ自分であるからです。
神という言葉を敢えて使うとするならば、それは自分自身に対するものに外ならないのであり、それ以外の神などあろう筈がないのです。
逆に言えば、自分以外の者つまり他者を以って悪魔と称することに外ならないと言ってもいいでしょう。
対話するとは実在同士の話であって、虚像つまり映像である他者との間にあるのは会話であって、対話ではありません。
対話とは自分自身との内なる会話に外なりません。
「神」という日本の言葉は、示す偏(へん)に申すという旁(つくり)で構成された文字であり、示し申すとは実在する者同士の対話に外ならないのであり、実在する者とは自分自身の肉体と意識に外ならないのであります。
意識は肉体が動くことによって生じたもの、つまり生きていることを象徴しているのが意識であって、肉体とは全体観であり、意識とは部分観であります。
更に、肉体の部分観として五感があり、意識の部分観として「想い」がある。
従って、肉体とは全体観の全体観であり、五感とは全体観の部分観であり、意識とは部分観の全体観であり、「想い」とは部分観の部分観であります。
全体観の全体観である肉体は、一段上の全体つまり地球と一段下の五感との橋(ブリッジ)を持っており、全体観の部分観である五感は一段上の肉体と他者との橋(ブリッジ)を持っており、部分観の全体観である意識は肉体と一段下の「想い」との橋(ブリッジ)を持っており、部分観の部分観である「想い」は一段上の意識と他者との橋(ブリッジ)を持っている。
部分観とは映像である他者との会話をする際の通信器官つまりアンテナであります。
全体観とは一段上および一段下の実在と対話をする通信器官つまりアンテナであります。
全体と部分の相対性は、静止の暗闇と沈黙の宇宙と運動の光と音(喧騒)の宇宙を貫く法則であります。
絶対宇宙である静止の暗闇と沈黙の宇宙が全体であるのに対し150億光年の拡がりを持つ全体宇宙が部分であり、全体宇宙が全体であるのに対し銀河星雲が部分であり、銀河星雲が全体であるのに対し7000億個ある恒星の一つである太陽が部分であり、太陽が全体であるのに対し水星・金星・地球・火星・木星・土星・天王星・海王星・冥王星である太陽系惑星群が部分であり、太陽系惑星群が全体であるのに対し地球が部分であり、地球が全体であるのに対し終着駅の月が部分であり、終着駅の月が全体であり始発駅の絶対宇宙である静止の暗闇と沈黙の宇宙に円回帰するのが、全体と部分の相対性であるのです。
円回帰運動の観点で言えば、全体観とは自転のことであり、部分観とは公転のことであります。
自転とは自分独りだけの世界観であり、公転とは自他の世界観であります。
従って、肉体とは地球と五感の間にある自転運動であり、五感とは自己の肉体と他者という映像の間にある公転運動であり、意識とは肉体と「想い」の間にある自転運動であり、「想い」は意識と他者という映像の間にある公転運動であります。
対話とは自転運動のことであり、会話とは公転運動のことであります。
従って、神との対話とは自転運動に外ならないわけで、対話の対象は地球と自己の肉体以外には無いのであります。
神という言葉を敢えて使うとするならば、神との対話とは自分自身への対話と、自分自身の親である地球との対話以外に外ならないのです。
聖職とは自分自身という神と、自分を生んだ地球という神との対話に外なりません。
イエスが自分のことを神の子だと言った。
マンスールが、“Allah akhbal(我は神なり)”と言った。
釈迦が悟りは気づくことだと言った。
彼らの言葉は、自己の神性を言っているだけのことであり、他者という映像の中に神などあろう筈がないのであります。
他者との関りばかりを気にして生きるわたしたちは、畢竟拝金主義の落し穴に嵌り込んでしまうのです。
聖職者とは神との対話をする者のことを言い、それはわたしたちひとり一人の自覚に委ねられているのです。