Chapter 653 ニュートラルな生き方(1)

わたしたちは生れてそして死にます。
一生とは生という始まりがあって、死で終わる。
つまり始点と終点だけが決定されていて、途中は一切決定されていない気紛れな旅でありますが、気紛れさの中にも法則性はあるのです。
地球という惑星の上に存在しているものはすべて、生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄という「二元論」の「考え方」に閉じ込められていますが、実在である「在り方」としては死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄であって、生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国は死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄の不在の「考え方」であって実在である「在り方」ではないのです。
プラスとマイナスは二律背反的な概念つまり「考え方」であって、「在り方」はニュートラル性をその本質として持っています。
昨日(過去)・今日(現在)・明日(未来)はプラスとマイナスの二律背反性を持った「考え方」つまり概念であって、『今、ここ』はニュートラル性を持った「在り方」つまり実在であります。
昨日(過去)という一方の端と、明日(未来)というもう一方の端の間を往復する振り子運動がプラスとマイナスの二律背反性を持った「考え方」つまり概念であって、振り子自体という実在するものは常に、『今、ここ』という静止状態つまりニュートラルであるのです。
単一の「想い」は静止状態つまり実在するニュートラルなのですが、複数の「想い」−連想−はプラスとマイナスの間を往復する振り子運動であって実在するものではありません。
わたしたちは単一の「想い」で思い悩むことはありません。
複数の「想い」である連想という運動が原因で思い悩んでいるのです。
単一の「想い」は静止状態ですが、複数の「想い」である連想は運動状態であるのです。
つまり単一の「想い」はニュートラルで、真中で静止している振り子そのものでありますが、複数の「想い」である連想は、プラスとマイナスの間を往復する振り子運動であって、振り子そのものではありません。
「在り方」とはニュートラルな静止状態であり、「考え方」はプラスとマイナスの間を往復する運動状態であると言ってもいいでしょう。
地球上における「二元論」の表象である生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄の中で死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄は「在り方」であり、生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国は死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄の不在状態という「考え方」だけです。
メスが子供を産み、オスは子供を産まないのが、メスは「在り方」であり、オスはメスの不在状態である「考え方」の証左であります。
オスもメスも実在する「在り方」であれば、オスも子供を産む筈です。
メスあってのオスであるのです。
悪あっての善であるのです。
弱者あっての強者であるのです。
愚者あっての賢者であるのです。
貧しき者あっての富める者であるのです。
不幸な者あっての幸福な者であるのです。
地獄あっての天国であるのです。
そして死あっての生であって、一生という最長のスパンでの生死だけが決定されているのですが、実は瞬間瞬間に生死の繰り返し運動をしているのです。
従って、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄も瞬間瞬間に同じ繰り返し運動をしているのです。
一生という最長のスパンの始点である生と終点である死が決定されているだけであり、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄の繰り返し運動は気紛れに起こっているように連想する結果思い悩むわけです。
連想する原因は、死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄が実在する「在り方」であり、生・オス・善・強・賢・富・幸・天国は死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄の不在状態という「考え方」に過ぎないことに対する無自覚さにあるのです。
「考え方」による無自覚さが連想を生み、連想が生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄の間を往復する振り子運動を生む結果思い悩むのです。
振り子の本来は静止したニュートラルな死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄だけであることを自覚すれば、振り子運動という連想の呪縛から解放された生き方をすることができるのです。