Chapter 666 眠りの人生から覚醒の人生へ

般若心経では、「色即是空、空即是色」と、その否定形である、「色不異空、空不異色」が有名な言葉の割に276文字の中で一回しか出てこないのに対して、繰り返し出てくるのが、「(無)色受想行識」であり、「(無)色聲香味触」であり、「五蘊」であります。
つまりこれらの言葉は平たく言えば、五感のことであり、「色」とは「景色」つまり視覚という五感の一つで見る光情報のことです。
人間は五感の一つである視覚で生きている生き物だと、心経は言っておるわけで、「色即是空、空即是色」の「色」とは五感の一つである視覚で感知した世界のことであり、それを「空」つまり現実(実在)の世界と勘違いしておると言っておるわけです。
「夢の中の眠り」で一貫して申してきました、わたしたちが目が醒めている現実の世界を、「所謂現実」として、「現実(実在)」とはっきり区別してきた所以であります。
五感で感知したことはすべて実像ではなく虚像(映像)であるのに、わたしたちは実像(現実)だと思い込んでいるのであり、まさに映画を観て一喜一憂しているのと同じことを人生で繰り返しているのです。
映画の場面(画面)は終われば消えて白いスクリーンに戻ることは、わたしたちも知っているのに、人生における場面(画面)も終われば消えて白いスクリーンに戻ることが何故わからないのでしょうか。
夜眠っている中で観る夢も映画と全く同じであり、夢(映画)が終われば白いスクリーンに戻って、朝目が醒め、『ああ、夢を観ていたんだ!』と気がついていることがその証左であり、五感で感知したものはすべて実像(現実)ではなくて虚像(映像)であることの一瞥を与えてくれているのです。
映画を観て一喜一憂しているけれど、一喜一憂する自分は鑑賞者であり、出演者ではないことは歴然としているにも拘らず、一喜一憂するのは何故だと思わないのでしょうか。
一喜一憂するのは当事者(夢の中の登場者)ではなく鑑賞者であり、逆に言えば、当事者(登場者)は決して一喜一憂しないのであります。
映画に登場してくる人物つまり出演者が、自分が出演している映画を観ても一喜一憂などしません。
何故なら、舞台裏を知っているからです。
自己主観から一喜一憂することはあっても、自己客観から一喜一憂することはないのです。
自己主観こそが、一喜一憂する映画の鑑賞者のように、五感で感知したものを「現実」だと思い込む行為であるのです。
自己客観すれば、映画の出演者のように、五感で感知したものを、「所謂現実」と思い知ることができるのです。
夢と映画のメカニズムは全く同じです。
人生も夢も映画のメカニズムと全く同じです。
映画のフィルムは一枚一枚の静止画面フィルムを積み重ねたものであり、動画に見えるのは映写機でパラパラと速く回すからです。
つまり実在するのは静止画面フィルムであり、動画フィルムなど存在しないのです。
動画つまり動いている画面は、五感で感知するだけの映像であり、その正体は静止画面フィルムつまり、『今、ここ』であるのです。
静止画面フィルムを覗き込んでも一喜一憂などしないのに、動いている画面を五感で見る、聞く、匂う、味わう、肌で感じると一喜一憂しているのです。
一喜一憂こそが人生における四苦八苦に外ならないのです。
五感で感知したものを現実だと錯覚する人生から、人類は脱却しなければならない事態に陥っています。
肉体や意識や「想い(心)」を自分だと思っているのに、五感だけを自分だと思えないから、五感に惑わされるのであります。
夢と覚醒の違いは、五感と「想い」の覚醒度の程度の違いだけであって、五感が強く働くと覚醒、「想い」が強く働くと夢になるのです。
肉体も意識も五感も「想い」も、生れてから死ぬまで全く眠っていないのが実態であり、それに気づいていないのを眠っていると言うのであります。
他の生き物は眠っているようで眠っていないのに、わたしたち人間だけが眠っていないようで眠っているのです。
それは五感を自分だと思っていないからであります。