Chapter 674 「想い」と「思考」

地球上における「二元論」は、生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄の十六通りありますが、実体あるのは、死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄であり、生・オス・強・賢・富・幸福・天国は死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄の不在概念であります。
従って、二元論的に言えば死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄は否定概念のように思われ勝ちですが、実体があるということは何を意味しているかと言うと、ニュートラル性を有しているという意味ですから、死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄は決して否定概念ではないことを、わたしたちは理解しなければなりません。
生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄の十六通りの二元論は死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄の相対的一元論であることに気づくべきであると言っているわけです。
わたしたちは生れてすぐに、死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄を好くないことだと、先ず生みの親である母親を皮切りに教え込まれてきたのですが、実はその母親も同じ経験をしているつまり鼬ごっこをしているだけのことで、実体ある死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄の否定ゲームを延々と続けてきたのが、知性ある人類の悲劇の歴史であったのです。
生れてすぐに叩き込まれたトラウマとして、死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄を好くないことだと思い込んで生きている限り、わたしたち人間社会だけにある四苦八苦から解放されることはないだろうし、人間が為し得る最大の罪である戦争を消滅させることは出来ません。
生れてすぐに叩き込まれたトラウマが更に、“わたしは正しい”という「想い」を生み、“相手が悪い”という考えを生むのですが、何故“わたしは正しい”と思うのか。
“相手が悪い”というのは考えである、つまり連想・思考の為せるものであるのに対し、“わたしは正しい”というのは単一の「想い」つまり感情なのです。
感情は思考ではなく、自然に湧いて来るものであり、生れた直後から母親を中心に摺り込まれた否定概念としての死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄に対する自己保身が為せたものなのです。
“わたしは正しい”と想う感情は客観性があるものではなく、外敵から身を守るように、単に反射神経的に、“わたしは正しい”と想うだけであります。
感情とは主観のみであると言ってもいいでしょう。
単一の「想い」である感情が主観なのですから、「想い」が連なる連想つまり思考も主観になってしまいます。
思考というのは客観性がその本質であるのに、思考そのものが主観になってしまっている。
連想を思考とさせるところに問題があることがわかってきます。
本来の思考とは、単一の「想い」である感情と混同させてはいけないものなのです。
“脳味噌に汗を掻きなさい”と口酸っぱく言い続けてきたのは、感情の連鎖反応を思考だと勘違いしてきたことに対する警鐘であったのです。
現代人は考えて生きているのではなく、思って生きているのです。
反射神経的に、“わたしは正しい”と思い、次から次へと湧いてくる“わたしは正しい”という「想い」が連想になると、今度は、“相手が悪い”と考えるようになり、挙げ句の果てに、憎み合い、戦争するのです。
五感で感知したものが印象として第六感である「想い」になるのが感情なのですが、視覚情報は時差を認知し難いことが原因で、視覚情報によって生じた複数の感情が、連鎖反応を起こした連想を、一個の「想い」と勘違いしたものが思考となっている。
感情と思考の混同現象が起きる。
わたしたち人間の殆どが、実は考えて生きているのではなく、思ってつまり連想して生きている感情の動物である所以であります。
しかし、わたしたちはそれを考えていると思っているのです。
わたしたちは、「想い」の生き物であり、「思考」の生き物ではないのです。
思考とは感情を検証することである、つまり湧いた「想い」を疑って掛かり、その上で検証するという、勇気が要る崇高な行為であるのです。
それを“脳味噌に汗を掻く”と言っているのです。