Chapter 675 「人間は想う葦である」

「人間は考える葦である」
フランスの哲学者パスカルの有名な言葉でありますが、実は人間は考える潜在能力を有しているだけで、殆どは考えることができずに生きているのが実態であると言ってもいいでしょう。
外界つまり他者と接点を持っている肉体の外皮である五感が働く(運動する)ことによって、第六感が印象(第一印象)を持つ(湧いてくる)のが「想い」であり、それを感情と言うのに対し、五感が得た外部情報を第六感が次から次へと第二印象、第三印象・・・と持つ(湧いてくる)と、それぞれの「想い」という感情が恰も繋がったように勘違いする結果、その一連の「想い」つまり連想を以って「考え(思考)」と思っているだけなのです。
しかし連想を構成している、それぞれの「想い」は第一印象、第二印象、第三印象といった具合の、それぞれは単独の感情であって何ら相関関係はないのですから、凡そ「考え(思考)」という代物ではないのです。
「考え(思考)」というものは本来、単一の「想い」の論理的展開を言うわけで、複数の「想い」が水平展開されるのに対して、垂直展開される性格のものです。
時間にも水平的時間(実時間)と垂直的時間(虚時間)とがあると申しましたが、水平的時間−わたしたちが日常使っている過去から現在を経由して未来へと流れていく実時間−に沿って複数の「想い」が重なっていく連想に対し、垂直時間−量的時間ではなく質的時間−に沿って単一の「想い」が深まっていったものを、「考え(思考)」と本来言うのです。
従って、わたしたちが普段考えていると思っているものは、「多い考え」、「少ない考え」といった量的「考え(思考)」つまり連想であって、本来の「考え(思考)」ではないのです。
一方、質的時間である虚時間に沿っての「考え(思考)」は「深い考え(思考)」、「浅い考え(思考)」といった質的「考え(思考)」であって、本来の「考え(思考)」と言えるわけです。
「沈思黙考」とは、「深い考え(思考)」をすることを言うのです。
過去・現在・未来に「想い」を馳せたものは、「考え(思考)」に非ず、連想であると言えます。
『今、ここ』から高見によじ上っていくものを、「考え(思考)」と言うのであります。
まさに登山をする苦しみを伴うのが、「考える」ということであり、肉体の汗ではなくて、脳味噌の汗を掻くことに外ならないのです。
本当に「考える」ということは、『今、ここ』に立たないと出来ないのに対し、わたしたちが勘違いしている単なる連想による「考える」ということは、『今、ここ』に立っていない証左になるのです。
「人間は考える葦である」ではなくて、「人間は想う葦である」と言い換えた方がいいのではないでしょうか。