Chapter 676 八方美人から四方美人へ

「人間は考える葦である」ようになるには、二元論すなわち相対的一元論という中途半端な生き方から脱却しなければなりません。
他の生き物のように無知性の絶対一元論の世界で生きているわけでもなく、有知性の絶対一元論つまり三元論の世界に生きているわけでもない、だからと言って二元論世界を生き切っているわけでもないのが、わたしたち人間であります。
二元論世界を生き切るということは、金持ちは貧乏であり、幸福は不幸であり、好きは嫌いであることを身体を以って理解していることですが、金持ちは好いが貧乏は嫌、幸福は好いが不幸は嫌、好きは好いが嫌いは嫌と思っているわたしたちは、二元論世界をも生き切っていない証明です。
絶対一元論の世界を生きている他の生き物は、無意識の内に『今、ここ』を生きています。
相対的一元論の世界を生きているわたしたち人間は、過去・現在・未来に「想い」を馳せ、更に連想することによって「想い」を拡大解釈させることで、「考える(思考する)」生き物だと思っている。
本当に「考える(思考する)」とは、五感によって感知した印象すなわち感情という単一の「想い」を先ず疑って掛かり、その上で客観的に検証するという勇気ある動作を言い、『今、ここ』の『今』という時間軸に立っている「在り方」を認識する知力と、『今、ここ』の『ここ』という空間軸に勇気を以ってジャンプすることによって得る真の「考え方」を両立させた生き方と言ってもいいでしょう。
『今、ここ』の『今』という時間軸に立っているわたしたちは、運動の光と音(喧騒)の世界にいるにも拘らず、運動していることを認識できていないわけで、時速300kmで走る新幹線に乗っている客が時速300kmの速度を感じていないように、時速1,875kmで自転し、時速107,244kmで公転している地球号に乗っていることを感じていないのです。
「全体と部分の相対性の法則」が働いている所以であります。
運動するということは「考える(思考する)」ことに外ならないわけで、死によって運動が停止すると「考える(思考する)」ことも停止するわけですから、肉体が死んだ後も魂は永遠に生きているなど論外であります。
ところが生きているつまり運動している物体は運動していることを自覚できていないように、「考える(思考する)」をしていることを自覚できないのは、『今、ここ』の『今』という時間軸に立っている宿命であります。
「在り方と考え方」の法則が働いている所以であります。
時速300kmで走っている新幹線から飛び下りて、新幹線の外に出なければ時速300kmの速度を認識することができないように、運動していることを自覚するには、『今、ここ』の『今』という時間軸から『ここ』という空間軸に飛び移らなければなりません。
ところが、わたしたち人間は、『今、ここ』の『今』という時間軸から『ここ』という空間軸に飛び移る勇気を発揮できず、『今』という時間軸の流れに沿って移動していく過去・現在・未来という『今、ここ』の蜃気楼に目を向けているだけで、『ここ』という空間軸にジャンプして、『今』という時間軸の流れに沿っている実在を観るという本当の「考える(思考する)」行為ができていないのです。
それはまるで、新幹線の他の車両に移動することで、新幹線から飛び下りているつもりのようであります。
「考える(思考する)」とは新幹線から飛び下りることであり、他の車両に移動するつまり連想することで以って「考える(思考する)」と思い込むことではないのです。
新幹線から飛び下りる、つまり清水の舞台から飛び下りる勇気のない人間は、永遠に相対的一元論の世界に生きることになり、金持ちは好いが貧乏は嫌、幸福は好いが不幸は嫌、好きは好いが嫌いは嫌といった八方美人的な生き方しかできないのであります。
八方美人は真の美人ではありませんから、結局誰からも好いようには思ってもらえない八方不美人になっていることがわかっていないのです。
四方不美人は四方美人にもなれるのです。