Chapter 682 悲劇を引き起こす張本人は大衆

過去・現在・未来に「想い」を馳せ、連想(追憶)して、夢観る人生を送っているわたしたち人間が引き起こす差別・不条理・戦争。
わたしたちが観る夢は殆どが恐怖の映画です。
楽しい夢を観ることは滅多にありません。
正月の初夢に富士山の夢を観るのが一番だと日本では昔から言われてきたのが、楽しい夢を滅多に観ない証であります。
恐怖の夢ばかり観るのは、記憶の根底にあるものが恐怖心であるからです。
死に対する恐怖を筆頭に、未だ来ぬ(見えない)未来への不安が恐怖心の原因であるのですが、未だ来ぬ未来への希望があれば楽しい夢になる筈ですから、わたしたち人間の未だ来ぬ未来に対する「想い」は圧倒的に希望よりも不安が勝っているのです。
だから楽しい夢よりも、恐い夢ばかりを観るわけです。
未だ来ぬ未来に対する「想い」は殆どが不安である理由は、運動の光と音(喧騒)の宇宙における三つの法則、つまり誕生・生・死を地球レベルに落とし込んだ、「二元論」・「全体と部分の相対性の法則」・「在り方と考え方」の中の十六通りの二元論にあります。
生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄の十六通りの二元論が、わたしたち地球上の生きとし生きるすべてにとっての「在り方と考え方」の基本となるものですが、実体があるのは死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄であって、生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国はその不在概念に過ぎないのです。
わたしたち人間だけが、不在概念に過ぎない生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国を追いかけ、実体のある死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄を避けて生きています。
不在概念の生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国を追いかけるということは、実体のある死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄を追いかけていることに外ならないのです。
正月に神社・仏閣で一年の無事・安全を祈りますが、それは有事・危険を引き寄せる祈りに外ならないことを、わたしたちはわかっていないのです。
神社・仏閣や神に祈りを捧げる基本は感謝の念だけで、願をかけることは禁物だと昔から言われてきたのも、この真理をわかっていたからです。
心理学で言うところの潜在意識は、生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄を対立要因とは捉えずに補完要因と捉えているのに対し、顕在意識は対立要因と捉えていて、現実化能力は顕在意識よりも潜在意識の方が圧倒的なパワーを持っているのです。
「二元論」の要点は、二つの要因が対立するのではなくて補完し合っている点にあります。
生と死は対立しているのではなく補完し合っている。
オスとメスは対立しているのではなく補完し合っている。
善と悪は対立しているのではなく補完し合っている。
強と弱は対立しているのではなく補完し合っている。
賢と愚は対立しているのではなく補完し合っている。
富と貧は対立しているのではなく補完し合っている。
幸福と不幸は対立しているのではなく補完し合っている。
天国と地獄は対立しているのではなく補完し合っている・
ところが、わたしたち人間はこれら十六通りの二元要因を対立しているという「考え方」を、エデンの園の善悪の判断をする禁断の実を食べた結果するようになってしまった。
最初に大いなるボタンの掛け間違いをしてしまったのです。
人間だけが神に祈り、神社・仏閣に願をかける始末で、過去・現在・未来に「想い」を馳せ、未だ来ぬ未来を不安の坩堝に自ら落とし、不安の連想という悪夢の追憶をし、挙句の果てに四苦八苦の人生であります。
四苦八苦の人生から少しでも逃れたいと、“誰からも悪く思われたくない”という素人の浅知恵を働かせ、八方美人−実は八方不美人−になる愚かさは極めつけであります。
八方美人は八方不美人と対立しているのではなくて補完し合っていることがわかっていないのです。
過去・現在・未来に「想い」を馳せ、連想(追憶)して、夢観る人生を送っている八方美人が引き起こすのが差別・不条理・戦争の根源にあり、観る夢の殆どが恐怖の映画であるからです。
八方美人的な生き方をする限り、四苦八苦の人生が確実に待ち受けていることを肝に銘じておくことが肝腎であります。