Chapter 708 考える

区分け(差別化)は知性が為す業で、善悪の判断行為でもあります。
“あれは悪い”
“これは善い”
つまり
“他人が悪い”
“自分が善い”
となるわけですが、これは明らかに連想の為せる業に外なりません。
“他人が悪い”から“自分が善い”というわけです。
この考え方は一見論理的に思えますが、実は全く非論理的であります。
この考え方は一見二元論的に思えますが、実は相対的一元論であります。
“他人が悪い”且つ“自分が悪い”こともある。
“他人が善い”且つ“自分が善い”こともある。
“他人が善い”で“自分が悪い”こともある。
“他人が悪い”で“自分が善い”こともある。
状況によって、以上の四つの考え方があるのです。
“他人が悪い”から“自分が善い”
これは考え方ではなくて、連想つまり感情の連鎖反応に過ぎません。
感情の連鎖反応である連想とは、まさしく知性の誤用の為せる業であります。
知性の正しい使い方とは、本当の考え方をすることであり、それは感情の連鎖反応に過ぎない連想をするのではなくて、先ず自我意識のない『今、ここ』に立つことであります。
過去や未来に思いを馳せることを止めることです。
過去や未来に思いを馳せること、つまり過去を悔やんだり、未来を取り越し苦労したりすることを一切止めると、自ずから『今、ここ』に立つことができます。
逆に言えば、『今、ここ』に立つとは、過去を悔やむことを止め、未来を取り越し苦労することを止めることです。
『今、ここ』に立つとは、連想つまり感情の連鎖反応を止めることに外なりません。
『今、ここ』に立つとは、感情に流されないことに外なりません。
『今、ここ』に立つとは、湧き出てくる単一の「想い」つまり単一の感情に注意を払うことに外なりません。
そして次のステップである『今』から『ここ』にジャンプする。
『今』は本当の自分つまり「わたし」の居る(在る)時間軸です。
「わたし」と共に時間は流れています。
『ここ』は本当の自分つまり「わたし」の考える空間軸です。
時間軸と空間軸は交わっていません。
静止と運動は同時発生できないからです。
ハイゼンベルグの不確定性原理が言うところの、“すべての物質は、その位置と運動量を同時に確定することはできない”とはこのことを示しています。
従って、本当の自分である「わたし」が考えるには、本当の自分である「わたし」が居る(在る)『今』という時間軸から『ここ』という空間軸にジャンプしなければなりません。
『今』から『ここ』へジャンプするとは、平たく言えば、過去や未来に思いを馳せるのを止めても依然ある自我意識を滅することであります。
自我意識を滅することは勇気の要ることです。
勇気の発露とは自我意識を滅することに外なりません。
死を恐れるのは自我意識が滅することに対する恐怖からであります。
従って、本当に考えるということは、考えるという主体がないのですから、考える自分も考えられる他人もない、只考えるという行為だけがあることを意味します。
『今』から『ここ』にジャンプするとは、まさしく考える一如の状態であり、自我意識が為せる感情の流れるままに連想することではないのです。
“他人が悪い”から“自分が善い”のではないのです。
本当に考えるとは、
“他人が悪い”且つ“自分が悪い”こともある。
“他人が善い”且つ“自分が善い”こともある。
“他人が善い”で“自分が悪い”こともある。
“他人が悪い”で“自分が善い”こともある。
と考えることであります。