Chapter 711 勘違い・錯覚の人類の歴史

人類の歴史は精々一万数千年のことであり、人類の祖先である猿人(アウストラロピテクス)の数百万年の歴史、哺乳類・爬虫類・両生類・魚類といった動物の祖先である有機生命体の8億年の歴史、生命体の36億年の歴史、地球の46億年の歴史からすれば、ほんの一瞬の出来事なのです。
地球46億年の歴史の中で、知性を有して地上の覇者になり得たのは一万数千年前のことであり、それ以前は他の生命体の中で、極めて腕力の弱い、つまり弱者の立場の生き物であったという事実です。
弱者の立場であり続けた人類の祖先が、知性を有したことで地上の覇者になった一万数千年前の人類の歴史の黎明期において、人類だけの掟ができました。
白人・黒人・黄色人種と区分け(差別化)するようになった人種のルーツであるメソポタミアのウル王朝時のウルナンム法典や、旧約聖書でアムラベルの名で伝えられているハムラビ王がつくったハムラビ法典などがそうです。
これらの法典では、殺人・盗みなどの荒廃に対する刑罰が規定されていて、旧約聖書の出エジプト記で有名なモーゼの十戒に繋がっていったのです。
殺人・盗みなどが悪いことであると初めて規定されたわけです。
旧約聖書の創世記に遡ると、アダムとイヴが善悪の判断の実を食べた結果、自然の世界であるエデンの園から人類は追放されたと記されています。
これは一体何を示唆しているのでしょうか。
腕力的に極めて弱い立場であった人類にとっては、殺しとは殺されることであり、盗みとは盗まれる弱者の立場であった故に、殺す行為、盗む行為を否定的に捉えていただけのことで、地上の覇者になった人間世界では罪と定義づけてしまったのです。
“汝殺すなかれ”
“汝盗むなかれ”
これらの戒めは、殺されてきた、盗まれてきた歴史の訓戒であったのです。
しかし自然の世界つまりエデンの園では、殺す行為、盗む行為は自然の営みの一環であって、善くも悪くもなかったのです。
善悪二元論など無い絶対一元論の世界であったのです。
全体と部分など無い全体一元の世界であったのです。
在り方と考え方など無い在り方一元の世界であったのです。
知性を有したことで地上の覇者となった人類は、人類の仲間内では殺す行為・盗む行為を罪つまり悪と見做したわけです。
二元論を相対的一元論に決めつけた始まりであります。
十六通りの二元論である生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄を対立要因と捉え、死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄を否定要因と捉え、生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国を肯定要因と捉えた。
本来在ったつまり実体のあるものは、殺すという行為であり、盗むという行為であり、それらの行為を人類だけが悪として、悪の無い状態つまり不在概念を善としただけのことであります。
死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄が実体あるもので、生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国はその不在概念に過ぎない所以であり、二元論の本質は生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄を補完要因と捉えることにあるにも拘わらず、対立要因と捉えたつまり相対的一元論に変質してしまったのです。
人類の勘違いの歴史、錯覚の歴史がここから始まり、現代社会まで連綿と引き継がれているのです。
支配・被支配二層構造社会、世襲・相続の差別社会は、この勘違い・錯覚の産物であるのです。
二十一世紀は、この勘違い・錯覚から目覚める世紀でなければなりません。