Chapter 719 「在り方」の「考え方」

嫌なものでありながら実体あるものから追いかけられ、望むものでありながら嫌なものの不在概念に過ぎない蜃気楼のようなものばかりを追いかけて生きているのが、わたしたち人間であります。
追いかけられるものは実体があり、追いかけるものは実体がない。
こんな人生を送っている限り、四苦八苦は絶えることがありません。
思い切って逆転の発想をするしか方法はありません。
追いかけるものは実現可能性がある実体あるものとして、追いかけられるものは実現不可能な実体ないものとすればいいわけです。
死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄という実体あるものを追いかける。
生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国という実体ないものに追いかけさせる。
わたしたちのこれまでの人生を振り返ってみますと、結局の処、実体ある死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄を追いかけ、実体のない生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国に追いかけられてきた筈であります。
地球上の四十八通りの法則の十六通りの「在り方と考え方」が厳然と働いています。
わたしたちは、考え方としては実体のない生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国を追いかけ、実体のある死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄に追いかけられてきた。
しかし、在り方としては実体ある死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄を追いかけ、実体のない生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国に追いかけられてきた。
だから『今、ここ』にわたしたちは存在しているのです。
そうでなければ疾くの昔に、わたしたちは消滅しています。
つまり自殺しているか、病気で死んでいるか、殺されているか、要するに寿命が尽きているということであります。
『今、ここ』に居るということは、考え方としては実体のない生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国を追いかけ、実体のある死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄に追いかけられてきたかも知れませんが、在り方としては実体ある死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄を追いかけ、実体のない生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国に追いかけられてきたのは歴然たる事実であります。
わたしたち人間だけが精神分裂症であるのは、他の生き物のように在り方一如で生きていないからで、考え方と在り方の両方で生きてきた点にあります。
在り方においては、地球の一構成員である限り、問答無用に在り方一如で生きているのですから、問題は考え方にある。
知性を得たということは、考える能力を得たということですから、知性を得た時点から、わたしたち人間だけは在り方と考え方の両方で生きる宿命を背負ったのです。
問題は考え方にあった。
実体のない生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国を追いかけ、実体のある死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄に追いかけられる考え方に問題があったのです。
実体ある死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄を追いかけ、実体のない生・オス・善・強・賢・富・幸福・天国に追いかけられる考え方にすれば問題はないのです。
嘗て小学校の校庭に必ず立っていた、薪を背負いながら本を読む銅像で有名な二宮金次郎の有名なエピソードがあります。
現代流に言えば、彼は経済学の大家で、ある日、大店から招かれ、風呂を薦められた。
丸い樽のような五右衛門風呂の中で、彼は手ぬぐいで湯を押し出したり、引き寄せたりしていて忽然と悟った。
“押し出してやると、湯は寄ってくる。引き寄せようとすると、湯は去っていく”
湯に限らず、世の中のことはみな同じ理屈で成り立っている。
求めれば逃げてゆき、求めなければ勝手に寄ってくる。
如何に知性を働かせても、結局の処は、在り方一如でしかないのです。
そうであれば、考え方を在り方に合わせることが、唯一の考え方であるのです。