Chapter 725 病(やまい)の程度

病気は気の病(やまい)と言いますから、病(やまい)の十中八九は気の問題つまり五感で感知した結果起こる「想い」という感情が為せる業であります。
従って、連想しない人生を送れば病気には殆どなりません。
「普段の運動」と「激しい運動」と称して区分けしていますが、肉体及び肉体が運動した結果生じる意識、肉体の部分であり他者とのコンタクト器官つまり自他の区分けをする五感及び五感が働くことによって生じる「想い」つまり感情、これらすべてに「普段の運動」と「激しい運動」があります。 
肉体と意識。
五感と「想い」。
これらを総称して今後、「心体(じんたい)」と呼ぶことにします。
心体が「普段の運動」をしている状態が病(やまい)の不在状態つまり健康であり、心体が「激しい運動」をしている状態が病(やまい)の在状態であると判断したらいいのではないでしょうか。
「激しい運動」とは心体が病(やまい)の状態つまり最低の状態だと言うことであります。
病(やまい)という字は、病(やまい)垂に丙という旁を書き、丙は兵に語源を持ち、兵とは最下級のことを意味します。
兵隊の兵が三等兵・二等兵・上等兵・兵長という軍隊の最下位の階級のことを意味するのも、甲乙丙の丙と同じであります。
心体の甲状態が「普段の運動」の病(やまい)の不在状態であり、乙状態が中間状態であり、丙状態が「激しい運動」の病(やまい)の在状態であると言ってもいいでしょう。
肉体レベルでは常に「普段の運動」をしていることは、五臓六腑が一生運動を続けていることでわかりますが、五感が運動と静止(停止)の間を往来する故に「激しい運動」が起こるのであります。
五感も五臓六腑と同じように一生運動を続けていれば「普段の運動」状態であるのですが、眠っている中で停止している場合もあるし、醒めている中でも停止している場合もある、つまり眠っている状態の時は五感の一部が停止しているわけで、眠っている証が五感の停止状態であり、運動と静止の繰り返しが、実は「激しい運動」の正体であるのです。
従って、生きているつまり運動している限り五感が働いているわけで、程度の差こそあっても「激しい運動」が介入してくることで病(やまい)という最低の状態になるのですが、普段のわたしたちは乙状態という病(やまい)の在状態と不在状態の中間に常にあると言ってもいいわけで、まさしく生きているのであります。
生きているとは、病(やまい)の乙状態にある。
二元論の生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄・・・若・老、健・病の死・メス・悪・弱・愚・貧・不幸・地獄・・・老・病が実体あるものの所以であります。
病(やまい)の乙状態が常態であり、病(やまい)の甲状態が最上態であり、病(やまい)の丙状態が最下態であるだけのこと、丙状態を病気つまり発病と言っているのです。
従って肝腎なのは発病する丙状態にならないようにすることであり、病(やまい)は常態にあると自覚することで、乙状態と丙状態の間を往来する生き方から、乙状態と甲状態の間を往来する生き方に腐心することであります。
その鍵を握っているのが五感の運動と静止(停止)の往来頻度に掛かっています。
五感の運動と静止(停止)の往来によって生じるのが、普段わたしたちが“心”とか“気持ち”とか言っている、単一の感情である「想い」の連鎖反応による連想に外ならないのであります。
連想が病気の元凶であり、気の病の気の問題とは連想問題に外なりません。