Chapter 753 調和的生活による人格形成

適正な生活をすることで、慢心(まんしん)と卑心(へいしん)を繰り返す躁鬱状態から解放されます。
わたしたちは軽度の躁鬱症に常に陥っています。
躁鬱症の乙状態だと言ってもいいでしょう。
ちょっとした内外的変化で乙状態から甲状態になることによって躁状態になり、またちょっとした内外的変化で乙状態から丙状態になることによって鬱状態になるわけです。
変化の程度は個人差があって、自我意識(エゴ)が強い人間ほど躁鬱の山谷が大きく、特に外的変化に大きく左右されます。
自我意識(エゴ)が強くなると、人為的欲望が大きくなります。
金銭欲・権力欲・名誉欲・悟欲などが人為的欲望ですが、欲望の程度によって金銭欲が権力欲に変貌し、権力欲が名誉欲に変貌し、名誉欲が悟欲に変貌していきます。
この世的成功者が突然出家するようなことが古今東西で頻繁に起こるのは、最終的には悟欲に辿り着いたからですが、所詮は欲の発露であるのです。
宗教は欲の終着駅であると言っても過言ではない。
終着駅なら、そこでお終いですが、わたしたちの宇宙は円回帰運動しているわけで、終着駅が始発駅に再びなるから厄介なのです。
この世的成功が如何なる形であっても、結局は四苦八苦の繰り返しに過ぎないわけで、繰り返しが重なれば重なるほど大きな四苦八苦に見舞われるのは必定であります。
貧乏人の苦労は金持ちの苦労からすれば高が知れています。
貧富の二元要因は貧に実体があって、富は貧の程度差に過ぎない所以であります。
金持ちとは貧の極大化現象であるのですから、金持ちになればなるほど心は貧しくなっていくのです。
苦労とは自己の「想い」の問題であって、他者とは何ら関係がない。
躁鬱症に陥り易い人間は、この世的成功に恋い焦がれている人間であり、金に恋い焦がれ、権力に恋い焦がれ、名誉に恋い焦がれ、そして悟りに恋い焦がれ、挙げ句の果てにクルクルパーで一巻の終わりであります。
拙著「富裕論」で、安岡正篤氏の言葉を引用して適正な生活の仕方を述べましたので、紹介しておきます。

「人格として優れた者を人物という。人物とはいかなる人格、いかなる人間内容を持つものであるか。
(気力)人格の原質ともいうべき第一は気力−肉体的・精神的な力である。これは案外、見てくれの身長や肉づき、外見的な体格、言動・動作に表われている向こう意気というようなものではない。むしろそういう点では振るわない、もの静かなふうであっても、事に当たると、ねばり強い、迫力や実行力に富んだ人がいる。潜在エネルギーの問題である。この気力が養われておらねば事に堪えない。せっかくの理想や教養も、観念や感傷になってしまい、人生の傍観主義者・孤立主義者・逃避主義者、あるいは卑屈な妥協主義者になってしまう。
(志操)この気力はその人の生を実現しようとする絶対者ともいうべき遺伝的創造力の活動であって、それは必ず実現せんとする何ものかを発想する。
これを理想、志という。理想、志は空想ではない。志を抱くことは、即ち生命の旺盛な実証である。その場合、気は生気より、進んで志気となる。それが現実のさまざまな矛盾・抵抗に逢うて、容易に挫折したり、消滅したりすることなく、耐久性・一貫性をもつことが「操」であり、「節」であって、志気はここに志操・志節となる。
(道義)志が立つに伴って、人間の本具する徳性や、理性・知性は、反省ということを知って、ここに我々の思惟・行為に、何がよろしいか、よろしくないかの判断を生じる。これを義という。義は実践と離れることのできない性質のものであるから、道義というのである。
(見識)我々の思惟・言動・行為について、何が義か、利か、何人もが良心的に肯定することか、単なる私欲の満足に過ぎぬことかというような価値判断力を見識(識見)という。見識は知識とは異なる。知は知性の機械的労作によっていくらでも得られるが、それだけでは見識にはならない。理想を抱き、現実のいろいろな矛盾・抵抗・物理・心理との体験を経て、活きた学問をしてこなければ見識は養われない。
(器量)そこで人間はようやく現実の生活・他人・社会・種々なる経験に対する標準が立ってくる、尺度が得られる。自分で物を度ることができるようになる。
人は形態的に言えば、ひとつの「器」であるが、これを物差しや升にたとえて、器度とか、器量というのである。「器量人」という言葉が昔からよく使われるが、つまり、多くの人を容れることのできる、内容的に言えば、人生のいろいろな悩み苦しみを受け入れて、ゆったりと処理してゆけることである。
古代、宰相を「阿衡」と称したが、阿は寄と同音で、天下が寄りかかれるだけの力をいい、衡は「はかり」の竿で、平・直を意味する。天下万民を信頼させて公平にさばくことができるという意味である。
(信念)こういう人間内容が、人生の体験を積んで磨かれてくるとともに、だんだんその理想・見識というものが、深さ・確かさ・不動性をもってくる。それを信念という。
人間人生ほどおぼつかないものはない。世は夢ということには何人も共感してきた。
金剛経の六如喝にいう「一切有為の法は、夢・幻・泡・影の如く、露の如く、また電の如し」である。西洋の学も何がRealであるかを尋ねて発達してきたといってよい。
人は信念を得てはじめて事実に到達する。
(仁愛)人が万物と生を同じうするところより生ずる共鳴を愛情という。
知を頭脳の論理とすれば、情は心腹の論理である。
万物と共に生きよう、物と一体になってその生を育もうとする徳を仁という。仁愛はこのおぼつかない、悩める衆生に対しては限りない慈悲となる。この慈悲仁愛の情は人格の最も尊い要素であり、信念はこの徳と相まって人を聖にする。人は智の人でなくてもよい。才の人でなくてもよい。しかしどこまでも情の人でなければならない。
(風韻)こういう人間の諸内容。諸徳が和合してくると、宇宙も生命も同じく、人格も節奏を成してくる。人間そのものがどこか音楽的なものになってくる。これは風韻・韻致・風格などと称する。
人格ができてくると、それがしっとりおちついて、柔らかく、なごやかに、声も妙韻を含んで、その全体がなんとなくリズミカルである。
人多き 人の中にも 人ぞ無き
人となれ 人となれ
という道歌があるが、人物さえできれば、人生の諸問題は難なく解決する。
国家・世界の難事も、要するに人格者が出そろわねば片づくものではないのである」
安岡正篤氏はこういった人格形成の要素を自己のものにするための日々の生活姿勢として次のような点を指摘され、生活基準にすることを薦められています。
(一)飲食は適正か
(二)毎晩、安眠・熟睡できるか
(三)心身に影響する悪習慣はないか
(四)適当な運動をしているか
(五)日常、一喜一憂しやすくないか
(六)精神的動揺があっても、仕事は平常どおり続け得るか
(七)毎日の仕事に打ちこんでいるか
(八)自分は今の仕事に適しているか
(九)現在の仕事を自分の生涯の仕事となし得ているか
(十)自分の仕事と生活に退屈していないか
(十一)たえず追求すべき明確な問題を持っているか
(十二)人に対して誠実であるか
(十三)人間をつくるための学問修養に努めているか
(十四)エキスパートになるための知識技術を修めているか
(十五)信仰・信念・哲学を持っているか