Chapter 765 映像の宇宙

“タマゴが先か、ニワトリが先か”の論理を追求する限り、わたしたちは好いとこ取りの似非二元論つまり相対的一元論の呪縛から解放されることはありません。
“タマゴが先か、ニワトリが先か”
相対的に生きる限り、四苦八苦と四楽八楽の繰り返しの人生から抜け出すことは不可能なのです。
“タマゴでもない、ニワトリでもない”
絶対的に生きると、四苦八苦と四楽八楽の繰り返しのない安心立命の人生を送ることができるのです。
相対的とは運動的ということであります。
絶対的とは静止的ということであります。
わたしたちの宇宙は、運動と静止、言い換えれば生と死(誕生)の繰り返しをする世界ですから、相対的であり且つ絶対的であるのです。
運動の光と音(喧騒)の宇宙とは、運動一如の宇宙ではなく、運動と静止、相対的且つ絶対的宇宙と言った方が適切です。
更に言い換えれば、運動の光と音(喧騒)の宇宙は、静止の暗闇と沈黙の宇宙の映像に過ぎないのです。
映画フィルムは、静止画フィルムの積み重ねでできています。
静止画フィルムをパラパラ捲る(運動する)ことで、動画面という映像が表れるわけです。
静止画フィルムは実在しますが、動画フィルムは映像に過ぎません。
動画面とは、静止画フィルムをパラパラ捲る運動と、静止画フィルムに当てる光と、静止画フィルムに添えた音で構成されています。
近い将来には、更に匂いや味や肌触りを静止画フィルムに添えたものも登場するでしょう。
三次元映像に光・音・匂い・味・肌触りも加えた映画(映像)が登場すると、わたしたちは所謂現実と映像との区分けができなくなってしまいます。
所謂現実がタマゴで、映像がニワトリなのか。
映像がタマゴで、所謂現実がニワトリなのか。
まさに、“タマゴが先か、ニワトリが先か”の際限ない問題にぶち当たることになるでしょう。
所謂現実ではなくて、現実とは静止画フィルムであります。
静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙が静止画フィルムであり、その映像が、運動の光と音(喧騒)の150億光年の拡がりを持つ、わたしたちの全体宇宙なのです。
過去や未来に思いを馳せて生きるということは、映像の世界に埋没していることであります。
『今、ここ』に生きているということは、絶対的且つ相対的に生きることであり、静止の暗闇と沈黙の世界の『今』に在り、運動の光と音の映像の世界の『ここ』を考えていることになるのです。
光を絶対者に置き、光以外はすべて相対的と捉えたアインシュタインの相対性理論は、映像の世界だけを描いているのでしょうか。
ハイゼンベルグの不確定性原理は、その矛盾を指摘しているのでしょうか。
いずれにしても、わたしたちは、誕生した限りは生きなくてはならず、生きていく結末には、誕生の裏返しである死に必ず行き着く、それ以外は何もはっきりしているものはないのであります。