Chapter 784 男女同権と男女対等

二十一世紀は、能動的な科学と受動的な哲学が統合される新しい100年になると以前申しました。
能動的な男性社会と受動的な女性社会が出会う世紀と言ってもいいわけで、男性社会と女性社会が出会うとは、男女同権と言う意味ではなくて、男女対等という意味であります。
これまでの人間社会が男尊女卑の男性社会であったことは否めません。
男尊女卑の男性社会だったから、男性社会の劣性遺伝子である差別・不条理・戦争が横行する社会になってしまったのです。
男女が対等の中での男性社会だったら、男性社会の優性遺伝子である秩序・自由・進歩の社会であった筈です。
二十世紀に文明が最も進んだ国であったアメリカで、第二次世界大戦直後に、ウーマン・リブ運動つまり男女同権を主張する運動が起こったのは偶然ではありません。
戦争、戦争に明け暮れる人類の歴史の中で、原爆の恐ろしさを知ったアメリカは、二度と戦争を起こしてはならないと思ったのは確かです。
アメリカ人の多くが、原爆投下国である自分の国に対して罪の意識を持っていないのは、原爆の恐ろしさが戦争抑止力になっていることを人類に知らしめた点を信じているからであり、そしてそこからウーマン・リブ運動がはじまるわけです。
男性社会の独裁性が戦争を生んでいたことを、彼らは知ったのですが、差別・不条理・戦争は男性社会の劣性遺伝子であり、男性社会独裁の中で発生する遺伝子であることに気づいていたら、男女同権を主張せずに、男女対等を主張した筈です。
男性社会独裁から生まれたのが男尊女卑の考え方であります。
男尊女卑の考え方に対するアンチテーゼが男女同権だったのです。
男尊女卑の考え方は、人間社会だけにあるもので、自然に融合して生きている他の生き物の世界にはない概念です。
支配・被支配二層構造の社会や、世襲・相続の差別の社会と同じで、男尊女卑の社会も知性を得た人間社会だけのものです。
インドのカースト制度、日本の士農工商制度、アメリカのインディアンや黒人に対する差別、中南米のインディオの差別、オーストラリアのアボリジニに対する差別、南アフリカのアパルトヘイトの差別・・・。
地球の隅々まで拡大している人間社会の差別問題は、男性社会が持つ劣性遺伝子の結果であり、男尊女卑の考え方も一種の差別意識であり、そのアンチテーゼである男女同権の考え方も差別意識のひとつであることを認識すべきでした。
同権と差別は所詮補完関係にある二元要因であり、対立要因ではなかったのです。
生を追い求めている限り、死から逃れることはできない。
善を追い求めている限り、悪から逃れることはできない。
強を追い求めている限り、弱から逃れることはできない。
賢を追い求めている限り、愚から逃れることはできない。
富を追い求めている限り、貧から逃れることはできない。
幸福を追い求めている限り、不幸から逃れることはできない。
天国を追い求めている限り、地獄から逃れることはできない。
神を追い求めている限り、悪魔から逃れることはできない。
健康を追い求めている限り、病気から逃れることはできない。
オスを追い求めている限り、メスから逃れることはできないのであります。
同権を追い求めている限り、差別から逃れることはできないのであります。
男女はオス・メスとして同権ではなくて、人間として対等なのです。
男女同権の考え方が差別意識の一種であることは、女性の男性化現象、男性の女性化現象の現代社会がその証明であります。
アメリカを筆頭に第二次世界大戦後に世界に拡がった男女同権運動が、女性らしさの典型である純潔意識を喪失させ、女性の純潔意識の喪失に一役買った男性は天に唾していることに気づかず、挙げ句の果てが、女の男化と、男の女化に行き着いたのであります。
元凶は男女同権の考え方にあったのです。
男女同権の考え方が、女性社会が持つ平等・公正・共生という優性遺伝子を圧し殺し、混乱・束縛・停滞という劣性遺伝子をのさばらせてしまった挙げ句の果てが、女の男化と、男の女化でもあったのです。
男女同権の考え方は、まだ半世紀前から始まったものです。
男女同権の考え方から、男女対等の考え方に変身することは、今からでも遅くはありません。
もう一度申します。
男女はオス・メスとして同権ではなくて、人間として対等なのです。
この考え方が、エデンの園の世界観である無知性の絶対一元論を超え、エデンの東にあるノドの町の世界観である好いとこ取りの相対的一元論をも超え、エデンの園の外にある二元論の世界観をも超え、人間だけが得た知性の優性遺伝子を引き継いだ有知性の絶対一元論の世界観である三元論の世界観なのであります。
もう一度申します。
男女はオス・メスとして同権ではなくて、人間として対等なのです。