Chapter 791 二十一世紀の医学(2)

受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会が二十一世紀の新しい社会になると、病気の概念も一変します。
好いとこ取りの相対的一元論-二元要因を対立要因と捉え、人間社会にとって都合の好いものと都合の好くないものに区分け(差別)する考え方-が二十世紀までの男性社会の考え方であったのに対し、二元要因を補完要因として捉える二元論の本質の考え方を透過して、二元要因を超えた有知性の絶対一元論つまり三元論の考え方の社会になるのです。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方では、健康は都合の好いもので、病気は都合の好くないものであるわけです。
二元論の本質が顕現している運動の光と音(喧噪)のわたしたちの宇宙では、健康は都合の好いもので、病気は都合の好くないものといった考え方は通用しないのです。
健康とは病気の不在概念に過ぎない。
健康とは病気の程度の一つに過ぎないだけで、健康という実体はないわけです。
軽度の病気のことを健康と言っているだけに過ぎないのです。
健康とは病(やまい)の甲若しくは乙状態のことであり、病(やまい)の丙状態を病気だと呼んでいると主張している所以であります。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方が錯覚であると主張する所以でもあります。
錯覚の生き方から自覚の生き方への変貌が、究極的には三元論の考え方の社会を実現することになるのです。
生きているということは運動をしているということです。
運動をしているということは一つの状態にずっと滞っていることは不可能であることを示唆しているのに、わたしたちは健康を希求します。
健康とは病気の不在概念と申しました。
不在概念とは一つの状態に停滞している、つまり静止している状態を示すわけで、運動の光と音(喧噪)の宇宙では不可能な考え方なのです。
だから不在(概念)であるわけです。
不在(概念)とは、実在の一要素−全体観に対する部分観、在り方に対する考え方−に過ぎないのであります。
健康とは病気の一形態-病(やまい)の甲状態-に過ぎないのであります。
二十一世紀の医学は、健康を追い求める医学ではなく、病気を制御する医学になるでしょう。
病(やまい)の丙状態にならない為の医学と言ってもいいでしょう。
その為には、わたしたちは生きている限り、病(やまい)の甲・乙・丙状態の何れかに在ることを自覚することが必要になります。
病気の無い状態-不在(概念)-である健康を追い求めることは、まさに鼬ごっこの錯覚であることを自覚しなければなりません。
病(やまい)の甲・乙・丙状態を繰り返すつまり円回帰運動をすることが、生きている証であるのです。
病(やまい)の甲状態が円回帰運動の始点つまり誕生であり、病(やまい)の乙状態が円回帰運動の円周であり、病(やまい)の丙状態が円回帰運動の終点つまり死であるのです。
わたしたちが生きているということは、円回帰運動の円周途上にあるということなのですから、病(やまい)の乙状態にあるということであります。
それを病(やまい)の甲状態にずっと居続けようとするのは土台無理な話です。
それを病(やまい)の丙状態にずっと居続けようとするのも土台無理な話です。
病(やまい)の甲状態とは誕生であり、病(やまい)の丙状態とは死であるわけで、誕生と死は、静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙に回帰する静止ポイントであって、静止ポイントを制御することは、運動の光と音(喧噪)の宇宙に生きているわたしたちには不可能なのです。
誕生と死は突然やって来るのです。
病気で死ぬことが最悪の死に方だと申しました所以であります。
死は突然やって来るのですから、それまでは病(やまい)の乙状態に在るのが必然なのです。
病(やまい)の乙状態と丙状態の間に深淵(Abyss)が横たわっている非連続状態だから、死は突然やって来るのです。
病(やまい)の乙状態と丙状態の間に深淵(Abyss)が横たわっていない連続状態なら、死は予期できる筈であります。
病(やまい)の丙状態は死と直面した時しかやって来ないのに、病(やまい)の丙状態つまり病気で悩んでいるのは、深淵(Abyss)を眼下にして病(やまい)の乙状態で、「ぎゃあ!ぎゃあ!」喚いているだけのことであります。
病(やまい)の乙状態にいながら、脅迫観念つまり取り越し苦労して悩んでいるに過ぎないのです。
健康を追い求める生き方は、いますぐ止めましょう。
高齢化社会で、健康保険問題・年金問題が深刻化していますが、これらの問題の解決は姑息な方法では無理です。
解決の切り札は、受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会にすることにあるのです。