Chapter 792 死季は四季

受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会が二十一世紀の新しい社会になると、死の概念も一変します。
好いとこ取りの相対的一元論が二十世紀までの男性社会の考え方であったのに対し、二元要因を補完要因として捉える二元論の本質の考え方を透過して、二元要因を超えた有知性の絶対一元論つまり三元論の考え方の社会になるのです。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方では、生は都合の好いもので、死は都合の好くないものであるわけです。
二元論の本質が顕現している運動の光と音(喧噪)のわたしたちの宇宙は、誕生・生・死という三つの法則の円回帰運動が基本ですから、生は都合の好いもので、死(誕生)は都合の好くないものといった考え方は通用しないのです。
生とは死の不在概念に過ぎない。
生とは死の程度の一つに過ぎないだけで、生という実体はないわけです。
軽度の死のことを生と言っているだけに過ぎないのです。
円回帰運動するということは、死の程度の変化であり、誕生から始まる死の行進曲と言ってもいいでしょう。
死の程度を死季(しき)で表現しますと、誕生とは死季(しき)の甲状態であり、生とは死季(しき)の乙状態のことであり、死季(しき)の丙状態を死だと言い換えることができます。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方が錯覚であると主張する所以でもあります。
錯覚の生き方から自覚の生き方への変貌が、究極的には三元論の考え方の社会を実現することになるのです。
生きているということは運動をしているということです。
運動をしているということは一つの状態にずっと滞っていることは不可能であることを示唆しているのに、わたしたちは生のみを希求します。
生とは死の不在概念と申しました。
不在概念とは一つの状態に停滞している、つまり静止している状態を示すわけで、運動の光と音(喧噪)の宇宙では不可能な考え方なのです。
だから不在(概念)であるわけです。
不在(概念)とは、実在の一要素−全体観に対する部分観、在り方に対する考え方−に過ぎないのであります。
生とは死の一形態-死季(しき)の甲状態-に過ぎないのであります。
死の最短形態が息であり、死の最長形態が一生であり、細胞が凡そ一月で生死を繰り返すのも、死の一形態であるのです。
二十一世紀の哲学・宗教は、生を追い求める哲学・宗教ではなく、死を制御する哲学・宗教になるでしょう。
死季(しき)の丙状態にならない為の哲学・宗教と言ってもいいでしょう。
その為には、わたしたちは生きている限り、死季(しき)の甲・乙・丙状態の何れかに在ることを自覚することが必要になります。
死の無い状態-不在(概念)-である生を追い求めることは、まさに鼬ごっこの錯覚であることを自覚しなければなりません。
死季(しき)の甲・乙・丙状態を繰り返すつまり誕生・生・死の円回帰運動をすることが、生きている証であるのです。
死季(しき)の甲状態が円回帰運動の始点つまり誕生であり、死季(しき)の乙状態が円回帰運動の円周である生であり、死季(しき)の丙状態が円回帰運動の終点つまり死であるのです。
わたしたちが生きているということは、円回帰運動の円周途上にあるということなのですから、死季(しき)の乙状態にあるということであります。
それを死季(しき)の甲状態にずっと居続けようとするのは土台無理な話であるのです。
それを死季(しき)の丙状態にずっと居続けようとするのも土台無理な話であるのです。
死季(しき)の甲状態とは誕生であり、死季(しき)の丙状態とは死であるわけで、誕生と死は、静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙に回帰する静止ポイントであって、静止ポイントを制御することは、運動の光と音(喧噪)の宇宙に生きているわたしたちには不可能なのです。
誕生と死は突然やって来るのです。
死(誕生)は突然やって来るのですから、それまでは死季(しき)の乙状態に在るのが必然なのです。
死季(しき)の乙状態と丙状態の間に深淵(Abyss)が横たわっている非連続状態だから、死季(しき)の丙状態つまり死は突然やって来るのです。
死季(しき)の乙状態と丙状態の間に深淵(Abyss)が横たわっていない連続状態なら、死は予期できる筈であります。
死季(しき)の丙状態は死と直面した時しかやって来ないのに、死季(しき)の丙状態つまり死で悩んでいるのは、深淵(Abyss)を眼下にして死季(しき)の乙状態つまり生で、「ぎゃあ!ぎゃあ!」喚いているだけのことであります。
死季(しき)の乙状態にいながら、脅迫観念つまり取り越し苦労して悩んでいるに過ぎないのです。
生を追い求める生き方をする限り、死の恐怖から逃れることはできません。
高齢化と少子化の社会が進むと、その主役である高齢者と子供はますます死の恐怖に苛まれ、挙げ句の果てに、脅迫観念から凶悪な犯罪を繰り返すことになるでしょう。
解決の切り札は、受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会にすることにあるのです。
死季(しき)は四季に通じることを肝に銘じて、『今、ここ』を生き切ることが肝要であります。
詩集「四季の詩」から、「四季と死期」を紹介しておきます。

四季と死期

四季とは死期のこと
四季の詩とは死期の詩
四季の春夏秋冬とは
死期の喜怒哀楽のこと
喜怒哀楽と春夏秋冬
生と死の繰り返す様
秋は哀しさがよく似合う
だけどそのあとに楽が来る
生きるとは哀しいこと
死ぬとは楽になること

− 新 田  論 詩集「四季の詩」より −