Chapter 793 イエスとマリア

受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会が二十一世紀の新しい社会になると、男と女の概念も一変します。
好いとこ取りの相対的一元論が二十世紀までの男性社会の考え方であったのに対し、二元要因を補完要因として捉える二元論の本質の考え方を透過して、二元要因を超えた有知性の絶対一元論つまり三元論の考え方の社会になるのです。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方では、男(オス)は都合の好いもので、女(メス)は都合の好くないもの、つまり男尊女卑の考え方であったわけです。
二元論の本質が顕現している運動の光と音(喧噪)のわたしたちの宇宙では、男性(オス)は都合の好いもので、女(メス)は都合の好くないものといった考え方は通用しないのです。
男(オス)とは女性(メス)の不在概念に過ぎない。
男(オス)とは女(メス)の一形態に過ぎないだけで、男(オス)という実体はないわけです。
女(メス)から男(オス)も産まれるわけで、女(メス)の中の男(オス)か女(メス)の程度の違いだけに過ぎないのです。
女(メス)の程度を純潔度(おんならしさ)で表現しますと、純潔度(おんならしさ)の丙状態が穢れのない女(メス)の中の女(メス)つまり処女であり、純潔度(おんならしさ)の乙状態が交尾の経験のある女(メス)と男(オス)であり、純潔度(おんならしさ)の甲状態が女(メス)の中の男(オス)であり、純潔な男(オス)であります。
純潔度(おんならしさ)の丙状態である処女マリアから、純潔度(おんならしさ)の甲状態であるイエス・キリストが産まれたのが、その象徴であり、イエス・キリストを十字架に架けたのが、わたしたち一般大衆を代表する純潔度(おんならしさ)の乙状態の人間であります。
イエス・キリストの死と復活(再誕)とは、純潔度(おんならしさ)の甲状態から純潔度(おんならしさ)の丙状態への円回帰つまり誕生・生・死であることを象徴しているのです。
誕生とは純潔度(おんならしさ)の甲状態であり、生とは純潔度(おんならしさ)の乙状態のことであり、死を純潔度(おんならしさ)の丙状態だとも言えます。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方が錯覚であると主張する所以であります。
錯覚の生き方から自覚の生き方への変貌が、究極的には三元論の考え方の社会を実現することになるのです。
男(オス)とは女(メス)の不在概念と申しました。
不在概念とは一つの状態に停滞している、つまり静止している状態を示すわけで、運動の光と音(喧噪)の宇宙では不可能な考え方なのです。
だから不在(概念)であるわけです。
不在(概念)とは、実在の一要素−全体観に対する部分観、在り方に対する考え方−に過ぎないのであります。
男(オス)とは女(メス)の一形態-純潔度(おんならしさ)の甲状態-に過ぎないのであります。
科学と哲学・宗教が統合する二十一世紀の新しい社会が、男性社会ではなく、女性社会になる根拠であります。
その為には、わたしたち知性ある人間は、純潔度(おんならしさ)の甲・乙・丙状態の何れかに在ることを自覚することが必要になります。
男尊女卑と表裏一体の関係にある男女同権を追い求めることは、錯覚の人生を送ることに外ならないのです。
受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会にすることが大切です。