Chapter 794 二十一世紀の教育

受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会が二十一世紀の新しい社会になると、善悪の概念も一変します。
好いとこ取りの相対的一元論-二元要因を対立要因と捉え、人間社会にとって都合の好いものと都合の好くないものに区分け(差別)する考え方-が二十世紀までの男性社会の考え方であったのに対し、二元要因を補完要因として捉える二元論の本質の考え方を透過して、二元要因を超えた有知性の絶対一元論つまり三元論の考え方の社会になるのです。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方では、善は(人間社会にとって都合の)好いもので、悪は(人間社会にとって都合の)好くないものであるわけです。
二元論の本質が顕現している運動の光と音(喧噪)のわたしたちの宇宙では、善は好いもので、悪は好くないものといった考え方は通用しないのです。
善とは悪の不在概念に過ぎない。
善とは悪の程度の一つに過ぎないだけで、善という実体はないわけです。
軽度の悪のことを善と言っているだけに過ぎないのです。
善とは悪(すなおさ)の甲若しくは乙状態のことであり、悪(すなおさ)の丙状態を悪だと呼んでいるだけのことであります。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方が錯覚であると主張する所以でもあります。
錯覚の生き方から自覚の生き方への変貌が、究極的には三元論の考え方の社会を実現することになるのです。
生きているということは運動をしているということです。
運動をしているということは一つの状態にずっと滞っていることは不可能であることを示唆しているのに、わたしたちは善を希求します。
善とは悪の不在概念と申しました。
不在概念とは一つの状態に停滞している、つまり静止している状態を示すわけで、運動の光と音(喧噪)の宇宙では不可能な考え方なのです。
だから不在(概念)であるわけです。
不在(概念)とは、実在の一要素−全体観に対する部分観、在り方に対する考え方−に過ぎないのであります。
善とは悪の一形態-悪(すなおさ)の甲状態-に過ぎないのであります。
二十一世紀の教育は、善を追い求める教育ではなく、悪(すなおさ)を追い求める教育になるでしょう。
悪(すなおさ)の丙状態にならない為の教育と言ってもいいでしょう。
その為には、わたしたちは生きている限り、悪(すなおさ)の甲・乙・丙状態の何れかに在ることを自覚することが必要になります。
悪の無い状態-不在(概念)-である善を追い求めることは、まさに鼬ごっこの錯覚であることを自覚しなければなりません。
悪(すなおさ)の甲・乙・丙状態を繰り返すつまり円回帰運動をすることが、生きている証であるのです。
悪(すなおさ)の甲状態が円回帰運動の始点つまり誕生であり、悪(すなおさ)の乙状態が円回帰運動の円周であり、悪(すなおさ)の丙状態が円回帰運動の終点つまり死であるのです。
わたしたちが生きているということは、円回帰運動の円周途上にあるということなのですから、悪(すなおさ)の乙状態にあるということであります。
それを悪(すなおさ)の甲状態にずっと居続けようとするのは土台無理な話です。
それを悪(すなおさ)の丙状態にずっと居続けようとするのも土台無理な話です。
悪(すなおさ)の甲状態とは誕生であり、悪(すなおさ)の丙状態とは死であるわけで、誕生と死は、静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙に回帰する静止ポイントであって、静止ポイントを制御することは、運動の光と音(喧噪)の宇宙に生きているわたしたちには不可能なのです。
善を追い求める生き方は、いますぐ止めましょう。
善を追い求める生き方は偽善を生みます。
偽善は概念であって実在するものではありません。
偽悪は悪を追い求めているのではなく、悪(すなおさ)の丙状態という実在を求めているに過ぎないのであります。
従来の教育や宗教が偽善の巣窟である限り、科学と哲学の統合の流れの中に、宗教・教育は介入する余地はまったくありません。
二十一世紀には宗教は消滅すると主張する所以であり、新しい教育が登場するでしょう。