Chapter 795 弱き美しい社会

受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会が二十一世紀の新しい社会になると、強弱の概念が一変し、支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別の社会が消滅します。
好いとこ取りの相対的一元論-二元要因を対立要因と捉え、人間社会にとって都合の好いものと都合の好くないものに区分け(差別)する考え方-が二十世紀までの男性社会の考え方であったのに対し、二元要因を補完要因として捉える二元論の本質の考え方を透過して、二元要因を超えた有知性の絶対一元論つまり三元論の考え方の社会になるのです。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方では、強は都合の好いもので、弱は都合の好くないものであるわけです。
二元論の本質が顕現している運動の光と音(喧噪)のわたしたちの宇宙では、強は都合の好いもので、弱は都合の好くないものといった考え方は通用しないのです。
強とは弱の不在概念に過ぎない。
強とは弱の程度の一つに過ぎないだけで、強という実体はないわけです。
軽度の弱のことを強と言っているだけに過ぎないのです。
強とは弱度(いさぎよさ)の甲状態のことであり、弱度(いさぎよさ)の乙及び丙状態を弱だと言うだけのことです。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方が錯覚であると主張する所以でもあります。
錯覚の生き方から自覚の生き方への変貌が、究極的には三元論の考え方の社会を実現することになるのです。
生きているということは運動をしているということです。
運動をしているということは一つの状態にずっと滞っていることは不可能であることを示唆しているのに、わたしたちは強を希求します。
強とは弱の不在概念と申しました。
不在概念とは一つの状態に停滞している、つまり静止している状態を示すわけで、運動の光と音(喧噪)の宇宙では不可能な考え方なのです。
だから不在(概念)であるわけです。
不在(概念)とは、実在の一要素−全体観に対する部分観、在り方に対する考え方−に過ぎないのであります。
強とは弱の一形態-弱度(いさぎよさ)の甲状態-に過ぎないのであります。
二十一世紀の家庭内における子供の躾は、強を追い求める躾ではなく、弱度(いさぎよさ)を志向する躾になるでしょう。
弱度(いさぎよさ)の丙状態にならない為の躾と言ってもいいでしょう。
その為には、わたしたちは生きている限り、弱度(いさぎよさ)の甲・乙・丙状態の何れかに在ることを自覚することが必要になります。
弱度(いさぎよさ)の無い状態-不在(概念)-である強を追い求めることは、まさに鼬ごっこの錯覚であることを自覚しなければなりません。
弱度(いさぎよさ)の甲・乙・丙状態を繰り返すつまり円回帰運動をすることが、生きている証であるのです。
弱度(いさぎよさ)の甲状態が円回帰運動の始点つまり誕生であり、弱度(いさぎよさ)の乙状態が円回帰運動の円周であり、弱度(いさぎよさ)の丙状態が円回帰運動の終点つまり死であるのです。
わたしたちが生きているということは、円回帰運動の円周途上にあるということなのですから、弱度(いさぎよさ)の乙状態にあるということであります。
それを弱度(いさぎよさ)の甲状態にずっと居続けようとするのは土台無理な話です。
それを弱度(いさぎよさ)の丙状態にずっと居続けようとするのも土台無理な話です。
強を追い求める生き方は、いますぐ止めましょう。
受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった、弱きゆえに美しい女性らしさが発揮される社会にすることです。