Chapter 796 愚鈍な生き方

受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会が二十一世紀の新しい社会になると、賢愚の概念も一変します。
好いとこ取りの相対的一元論-二元要因を対立要因と捉え、人間社会にとって都合の好いものと都合の好くないものに区分け(差別)する考え方-が二十世紀までの男性社会の考え方であったのに対し、二元要因を補完要因として捉える二元論の本質の考え方を透過して、二元要因を超えた有知性の絶対一元論つまり三元論の考え方の社会になるのです。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方では、賢は好いもので、愚は好くないものであるわけです。
二元論の本質が顕現している運動の光と音(喧噪)のわたしたちの宇宙では、賢は都合の好いもので、愚は都合の好くないものといった考え方は通用しないのです。
賢とは愚の不在概念に過ぎない。
賢とは愚の程度の一つに過ぎないだけで、賢という実体はないわけです。
軽度の愚のことを賢と言っているだけに過ぎないのです。
“自分が唯一知ったことは、自分は何も知らない存在であるということだけだった”
あの相対性理論を発見したアインシュタインの晩年の述懐であります。
況や、わたしたち凡人が賢いなどと口が裂けても言えません。
賢とは愚鈍(謙虚さ)の甲状態のことであり、愚鈍(謙虚さ)の丙状態を愚だと呼んでいるだけのことであります。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方が錯覚であると主張する所以でもあります。
錯覚の生き方から自覚の生き方への変貌が、究極的には三元論の考え方の社会を実現することになるのです。
生きているということは運動をしているということです。
運動をしているということは一つの状態にずっと滞っていることは不可能であることを示唆しているのに、わたしたちは賢を希求します。
賢とは愚の不在概念と申しました。
不在概念とは一つの状態に停滞している、つまり静止している状態を示すわけで、運動の光と音(喧噪)の宇宙では不可能な考え方なのです。
だから不在(概念)であるわけです。
不在(概念)とは、実在の一要素−全体観に対する部分観、在り方に対する考え方−に過ぎないのであります。
賢とは愚の一形態-愚鈍(謙虚さ)の甲状態-に過ぎないのであります。
二十一世紀の倫理観は、賢を追い求める倫理観ではなく、愚鈍(謙虚さ)を学ぶ倫理観になるでしょう。
愚鈍(謙虚さ)の丙状態にならない為の倫理観と言ってもいいでしょう。
その為には、わたしたちは生きている限り、愚鈍(謙虚さ)の甲・乙・丙状態の何れかに在ることを自覚することが必要になります。
愚鈍(謙虚さ)の無い状態-不在(概念)-である賢を追い求めることは、まさに鼬ごっこの錯覚であることを自覚しなければなりません。
賢を追い求める生き方は、いますぐ止めましょう。
受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった謙虚な女性らしさが発揮される社会にすることです。