Chapter 797 清貧が徳を生む

受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会が二十一世紀の新しい社会になると、豊かさの概念も一変します。
好いとこ取りの相対的一元論-二元要因を対立要因と捉え、人間社会にとって都合の好いものと都合の好くないものに区分け(差別)する考え方-が二十世紀までの男性社会の考え方であったのに対し、二元要因を補完要因として捉える二元論の本質の考え方を透過して、二元要因を超えた有知性の絶対一元論つまり三元論の考え方の社会になるのです。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方では、富は好いもので、貧は好くないものであるわけです。
二元論の本質が顕現している運動の光と音(喧噪)のわたしたちの宇宙では、富は都合の好いもので、貧は都合の好くないものといった考え方は通用しないのです。
富とは貧の不在概念に過ぎない。
富とは貧の程度の一つに過ぎないだけで、富という実体はないわけです。
軽度の貧のことを富と言っているだけに過ぎないのです。
富とは貧度(清貧さ)の甲状態のことであり、貧度(清貧さ)の丙状態を貧だと呼んでいるだけのことであります。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方が錯覚であると主張する所以でもあります。
錯覚の生き方から自覚の生き方への変貌が、究極的には三元論の考え方の社会を実現することになるのです。
生きているということは運動をしているということです。
運動をしているということは一つの状態にずっと滞っていることは不可能であることを示唆しているのに、わたしたちは富を希求します。
富とは貧の不在概念と申しました。
不在概念とは一つの状態に停滞している、つまり静止している状態を示すわけで、運動の光と音(喧噪)の宇宙では不可能な考え方なのです。
だから不在(概念)であるわけです。
不在(概念)とは、実在の一要素−全体観に対する部分観、在り方に対する考え方−に過ぎないのであります。
富とは貧の一形態-貧度(清貧さ)の甲状態-に過ぎないのであります。
二十一世紀の学問は、富を追い求める学問ではなく、貧度(清貧さ)の喜びを知る学問になるでしょう。
貧度(清貧さ)の丙状態にならない為の学問と言ってもいいでしょう。
その為には、わたしたちは生きている限り、貧度(清貧さ)の甲・乙・丙状態の何れかに在ることを自覚することが必要になります。
貧度(清貧さ)の無い状態-不在(概念)-である富を追い求めることは、まさに鼬ごっこの錯覚であることを自覚しなければなりません。
富を追い求める生き方は、いますぐ止めましょう。
高齢化・少子化社会の元凶は拝金主義の考え方にあり、一重に富を追い求めるからであります。
清貧の生き方こそ徳を積む生き方であります。
受動的・防御的・不随意的・凹型要素の、清貧の生き方をする女性が多い社会にすることです。