Chapter 798 艱難汝を珠玉にする

受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会が二十一世紀の新しい社会になると、幸福の概念も一変します。
好いとこ取りの相対的一元論-二元要因を対立要因と捉え、人間社会にとって都合の好いものと都合の好くないものに区分け(差別)する考え方-が二十世紀までの男性社会の考え方であったのに対し、二元要因を補完要因として捉える二元論の本質の考え方を透過して、二元要因を超えた有知性の絶対一元論つまり三元論の考え方の社会になるのです。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方では、幸福は好いもので、不幸は好くないものであるわけです。
二元論の本質が顕現している運動の光と音(喧噪)のわたしたちの宇宙では、幸福は都合の好いもので、不幸は都合の好くないものといった考え方は通用しないのです。
幸福とは不幸の不在概念に過ぎない。
幸福とは不幸の程度の一つに過ぎないだけで、幸福という実体はないわけです。
軽度の不幸のことを幸福と言っているだけに過ぎないのです。
“幸せ過ぎて怖い!”
軽度の不幸が幸せなのですから、いつ重症の不幸に変わるかわからないのであります。
幸福とは不幸度(しあわせの谷間)の甲状態のことであり、不幸度(しあわせの谷間)の丙状態を不幸だと呼んでいると主張している所以であります。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方が錯覚であると主張する所以でもあります。
錯覚の生き方から自覚の生き方への変貌が、究極的には三元論の考え方の社会を実現することになるのです。
生きているということは運動をしているということです。
運動をしているということは一つの状態にずっと滞っていることは不可能であることを示唆しているのに、わたしたちは幸福を希求します。
幸福とは不幸の不在概念と申しました。
不在概念とは一つの状態に停滞している、つまり静止している状態を示すわけで、運動の光と音(喧噪)の宇宙では不可能な考え方なのです。
だから不在(概念)であるわけです。
不在(概念)とは、実在の一要素−全体観に対する部分観、在り方に対する考え方−に過ぎないのであります。
幸福とは不幸の一形態-不幸度(しあわせの谷間)の甲状態-に過ぎないのであります。
二十一世紀の人間は、幸福を追い求める人間ではなく、不幸度(しあわせの谷間)を楽しむ人間になるでしょう。
不幸度(しあわせの谷間)の丙状態にならない人間と言ってもいいでしょう。
その為には、わたしたちは生きている限り、不幸度(しあわせの谷間)の甲・乙・丙状態の何れかに在ることを自覚することが必要になります。
不幸度(しあわせの谷間)の無い状態-不在(概念)-である幸福を追い求めることは、まさに鼬ごっこの錯覚であることを自覚しなければなりません。
谷間のない山は在り得ません。
不幸度(しあわせの谷間)の甲・乙・丙状態を繰り返すつまり円回帰運動をすることが、生きている証であるのです。
不幸度(しあわせの谷間)の甲状態が円回帰運動の始点つまり誕生であり、不幸度(しあわせの谷間)の乙状態が円回帰運動の円周であり、不幸度(しあわせの谷間)の丙状態が円回帰運動の終点つまり死であるのです。
わたしたちが生きているということは、円回帰運動の円周途上にあるということなのですから、不幸度(しあわせの谷間)の乙状態にあるということであります。
それを不幸度(しあわせの谷間)の甲状態にずっと居続けようとするのは土台無理な話です。
それを不幸度(しあわせの谷間)の丙状態にずっと居続けようとするのも土台無理な話です。
幸福を追い求める生き方は、いますぐ止めましょう。
“苦労は買ってでもせよ”
受動的・防御的・不随意的・凹型要素の発現した、苦労を受け止める女性らしい社会にすることです。