Chapter 799 閻魔大王は天使

受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさが発揮される社会が二十一世紀の新しい社会になると、天国と地獄の概念も一変します。
好いとこ取りの相対的一元論-二元要因を対立要因と捉え、人間社会にとって都合の好いものと都合の好くないものに区分け(差別)する考え方-が二十世紀までの男性社会の考え方であったのに対し、二元要因を補完要因として捉える二元論の本質の考え方を透過して、二元要因を超えた有知性の絶対一元論つまり三元論の考え方の社会になるのです。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方では、天国は好いもので、地獄は好くないものであるわけです。
二元論の本質が顕現している運動の光と音(喧噪)のわたしたちの宇宙では、天国は都合の好いもので、地獄は都合の好くないものといった考え方は通用しないのです。
天国とは地獄の不在概念に過ぎない。
天国とは地獄の程度の一つに過ぎないだけで、天国という実体はないわけです。
軽度の地獄のことを天国と言っているだけに過ぎないのです。
天国の登竜門には、必ず、閻魔大王さんが、わたしたちを待ち伏せているのであります。
天国とは地獄界(竜宮城)の甲状態のことであり、地獄界(竜宮城)の丙状態を地獄だと呼んでいるだけであります。
好いとこ取りの相対的一元論の考え方が錯覚であると主張する所以でもあります。
錯覚の生き方から自覚の生き方への変貌が、究極的には三元論の考え方の社会を実現することになるのです。
生きているということは運動をしているということです。
運動をしているということは一つの状態にずっと滞っていることは不可能であることを示唆しているのに、わたしたちは天国を希求します。
天国とは地獄の不在概念と申しました。
不在概念とは一つの状態に停滞している、つまり静止している状態を示すわけで、運動の光と音(喧噪)の宇宙では不可能な考え方なのです。
だから不在(概念)であるわけです。
不在(概念)とは、実在の一要素−全体観に対する部分観、在り方に対する考え方−に過ぎないのであります。
天国とは地獄の一形態-地獄界(竜宮城)の甲状態-に過ぎないのであります。
浦島太郎は、竜宮城から帰還して、玉手箱を喜び勇んで開けて、高齢化社会に戻りました。
二十一世紀のお伽話は、天国を追い求めるお伽話ではなく、閻魔大王さんを接待するお伽話になるでしょう。
地獄界(竜宮城)の丙状態にならない為のお伽話と言ってもいいでしょう。
その為には、わたしたちは生きている限り、地獄界(竜宮城)の甲・乙・丙状態の何れかに在ることを自覚することが必要になります。
地獄の無い状態-不在(概念)-である天国を追い求めることは、まさに鼬ごっこの錯覚であることを自覚しなければなりません。
地獄界(竜宮城)の甲・乙・丙状態を繰り返すつまり円回帰運動をすることが、生きている証であるのです。
地獄界(竜宮城)の甲状態が円回帰運動の始点つまり誕生であり、地獄界(竜宮城)の乙状態が円回帰運動の円周であり、地獄界(竜宮城)の丙状態が円回帰運動の終点つまり死であるのです。
わたしたちが生きているということは、円回帰運動の円周途上にあるということなのですから、地獄界(竜宮城)の乙状態にあるということであります。
それを地獄界(竜宮城)の甲状態にずっと居続けようとするのは土台無理な話です。
それを地獄界(竜宮城)の丙状態にずっと居続けようとするのも土台無理な話です。
地獄界(竜宮城)の甲状態とは誕生であり、地獄界(竜宮城)の丙状態とは死であるわけで、誕生と死は、静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙に回帰する静止ポイントであって、静止ポイントを制御することは、運動の光と音(喧噪)の宇宙に生きているわたしたちには不可能なのです。
死は突然やって来るのです。
地獄界(竜宮城)で死ぬことが最悪の死であります。
死は突然やって来るのですから、それまでは地獄界(竜宮城))の乙状態に在るのが必然なのです。
地獄界(竜宮城)の乙状態と丙状態の間に深淵(Abyss)が横たわっている非連続状態だから、地獄は突然やって来るのです。
地獄界(竜宮城)の乙状態と丙状態の間に深淵(Abyss)が横たわっていない連続状態なら、地獄は予期できる筈であります。
地獄界(竜宮城)の丙状態は死と直面した時しかやって来ないのに、地獄界(竜宮城)の丙状態で悩んでいるのは、深淵(Abyss)を眼下にして地獄界(竜宮城)の乙状態で、「ぎゃあ!ぎゃあ!」喚いているだけのことであります。
地獄界(竜宮城)の乙状態にいながら、脅迫観念つまり取り越し苦労して悩んでいるに過ぎないのです。
天国を追い求める生き方は、いますぐ止めましょう。
受動的・防御的・不随意的・凹型要素といった女性らしさに、閻魔大王さんは微笑かけてくれます。