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Chapter 801 眠った人生 意識が眠っているということはどういうことでしょうか。 では、意識が醒めているということはどういうことでしょうか。 目が覚めると言うように、覚めるから醒めるのであります。 「覚醒」という言葉は、「悟り」と同義語で、英語では共に“Enlightenment”であり、“Enlightenment”は“enlighten”の名詞形であり、“enlighten”とは、光(light)を灯すという意味の動詞形であります。 「自灯明」という仏教用語がありますが、“自らの光で足下を照らせ”という意味です。 覚醒とは自らの光で足下を照らすことであります。 「夢の中の眠り」では、目が覚めることを、目が醒めると一貫して表現してきた所以であります。 “覚”という文字は覚える(おぼえる)とも言い、覚える(おぼえる)は憶える(おぼえる)とも言い、憶える(おぼえる)は追憶することであります。 目が覚めるとは、思い出すことに外ならないわけです。 記憶を思い出すことを追憶といいます。 目が覚めるとは、記憶を思い出すことであり、眠りから目が覚めるとは、夢から覚めることに外ならないわけです。 夢は記憶の再生に外ならないと申しました所以であります。 従って、Non-Rem睡眠の熟睡とは眠りではなく、夢を見ているRem睡眠だけが眠りであるのです。 眠ったという自覚は、Non-Rem睡眠の熟睡だけでは得られません。 Non-Rem睡眠の熟睡は時間の流れを感じることができないからです。 時間の流れの中で記憶は蓄積されていきます。 記憶とは時間の流れという名札の下の光景である所以です。 わたしたちの生きている世界は、四次元要因である時間の流れの中での三次元空間、つまり四次元時空間の時間要因での一断面である光景のことです。 四次元時空間の時間要因での一断面とは、『今、ここ』のことであります。 『今、ここ』では時間の流れは感じません。 Non-Rem睡眠こそが覚めている状態であり、Rem睡眠の夢を見ている状態こそが眠りであるわけで、夢を見たことによって眠った感覚を得られる所以です。 時間の流れを感じる世界が眠っている世界であり、時間が流れていないつまり静止している世界が覚めた世界であるのです。 昼間目が覚めている世界では、時間の流れを感じて生きているのが、普段のわたしたちであります。 “時は金なり”と時間に追われて(流されて)生きていることが、文明のバロメーターのように思われています。 わたしたちの一生の1/3が眠っている人生であり、2/3が目が覚めている人生だと思ってきました。 一日24時間の中の1/3つまり8時間が眠りであり、2/3つまり16時間が覚醒であると思ってきましたが、Non-Rem睡眠30分とRem睡眠1時間が睡眠の一般のメカニズムでありますから、Non-Rem睡眠の熟睡の総時間は、8時間の1/3で精々2時間半であります。 結局の処、わたしたちが覚めているのは熟睡している2時間半つまり、一日24時間の1/10程度であったのです。 時間の流れを感じて生きている、昼間の目が覚めている時間はすべて眠っていることになります。 昼間の目が覚めている間も、わたしたちは夢を見ていると主張する所以であり、更に言えば、夜間の眠っている中での夢では、時間の流れは、過去から未来への流れとは限りません。 つまり物理学で言う、三本の時間の矢の一本である、過去から未来へと一方通行で流れる“心理的時間の矢”に沿って時間は流れていないのが夢の世界であります。 昼間の目が覚めている時間は、過去から未来への一方通行の流れつまり心理的な時間の矢の流れであり、夜間の眠っている状態より更に眠っている状態だと言っても過言ではありません。 自分以外の他者はすべて映像である所以でもあります。 “自覚”に対して“他覚”が醒めると言ってもいいでしょう。 覚醒とは、自分以外の他者はすべて映像であると気づくことであり、映像である夢を見ることは映像を観賞することですから、夢を「観る」のであります。 意識が眠っているということは、時間の流れを感じていることであり、過去から未来へ流れる心理的時間の矢に沿って生きていることに外なりません。 意識が醒めているということは、時間の流れを感じないつまり時間が静止していることを感じることであり、『今、ここ』にいることに外なりません。 『今、ここ』にいるのは一日24時間の1/10程度の熟睡の間だけなのですが、大人になったわたしたちは、その熟睡さえも出来ないで生きているのですから、一生眠りの人生と言ってもいいでしょう。 『今、ここ』に生きている純真無垢な子供が熟睡できる所以であります。 |