Chapter 803 『今、ここ』とは虚時間の世界

「悟り」、「覚醒」、「愛」とは、出家して厳しい修行をしたり、座禅三昧の境地を追い求めたり、「利自心」を捨て「利他心」を実践することで到達する境地ではないのです。
過ぎ去った過去や、未だ来ぬ未来に思いを馳せることをしないで、ただただ『今、ここ』にいるようにすればすぐになれる境地なのであります。
生まれた赤ん坊-男女で若干差異がありますが-が、母親からこの世的躾を受け、記憶の蓄積が始まるのが3才〜5才頃までのことです。
記憶の始まりが生まれた直後からではなくて、3才〜5才頃からのものであるのは、そこそこの記憶が蓄積される時期が必要であるからです。
記憶の蓄積とは、まさしく「心の垢」の所以であります。
単一の「心」ではなく、複数の「心」が溜まって「心の垢」となるのです。
複数の「心」とは、「夢の中の眠り」で強調しております、連なった「想い」つまり連想のことであります。
単一の「心」とは単一の「想い」のことであり、肉体の一部である五感が、見る、聞く、匂う、味わう、肌で感じることによって、他者の情報を受信した結果生じる喜怒哀楽の感情のことであります。
五感で受信した情報は光情報・音情報・匂い情報・味情報・触覚情報であるのですが、目・耳・鼻・舌・肌(皮膚)のそれぞれの神経から脳を経由して肉体全体に伝達される速度は、電波速度つまり宇宙上の最速度である光と同じ速度で為されます。
コンピュータは、電波速度-電子計算機と言われるのは電波速度と同じ電子の動きを利用して計算する-で計算が為されるから、複数の仕事が同時に行われているように感じているが、実際には単一の仕事しかできないのと同じことが脳において起こっているのです。
単一の「想い」つまり単一の「心」が猛烈な速度で伝達される結果、次から次へと起こる「想い」が恰も同時に伝達されているように錯覚するのが連想であり、複数の「想い」つまり「心の垢」になるのです。
記憶とはまさに連想によってへばりついた「心の垢」に外ならないのです。
「心の垢」になるまでには、そこそこの記憶の蓄積が要る。
生まれた直後からの記憶がなく、3才〜5才頃からの記憶しか辿れない原因は、「心の垢」になるのに要する時間差が原因なのです。
3才〜5才頃には、生まれた直後からの記憶が勿論あるのですが、「心の垢」にまではならないから、すぐに消滅してしまうわけです。
過ぎ去った過去に思いを馳せるということは、蓄積された記憶を再生することに外ならないわけであり、未だ来ぬ未来に思いを馳せるのも記憶を基に為されることですから、過ぎ去った過去に思いを馳せることさえしなければ、未だ来ぬ未来に思いを馳せることは起こらないのです。
『今、ここ』にいることが困難な理由は、記憶に原因があるのです。
コンピュータには内部記憶装置と外部記憶装置があります。
フロッピーディスク・ドライブやCDドライブが外部記憶装置であり、コンピュータ内にあるハードディスクが内部記憶装置であります。
肉体で言えば、脳が内部記憶装置であり、身体の各器官が外部記憶装置です。
他の生き物も記憶を蓄積しているのですが、外部記憶装置つまり身体の各器官で記憶されているだけであるのに対して、人間だけは内部記憶装置つまり脳で記憶され、仕事をする時に脳に蓄積されている記憶を、身体の各器官に伝達するシステムになっている。
知性ある生き物である人間の所以がここにあり、内部記憶装置である脳こそ、大脳新皮質に外ならないのです。
人間と霊長類にだけしか見られない二重の大脳皮質こそが知性の実体であり、「心の垢」が発生する原因であります。
他の生き物にも脳はあり、大脳皮質もあるが、一層の皮質つまり大脳古皮質だけであり、大脳古皮質は記憶装置ではなく、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という五感アンテナで受信した外部情報を身体の各器官に伝達する、コンピュータで言うところの、I/O(インプット/アウトプット)装置です。
反射神経で為される仕事-実際に為される仕事はすべて反射神経による-は、内部記憶装置である大脳新皮質で記憶されずに、大脳古皮質から外部記憶装置である身体の各器官に直接伝達される行為に外ならないのです。
本能的行動とは、まさに反射神経で為される仕事のことであり、他の生き物は反射神経のみで生きているのに対し、人間だけは知性つまり理性でも生きている所以であります。
“動物的な勘”
“動物的な反射神経”
とは、大脳新皮質を経由せずに、大脳古皮質から身体の各器官に指示伝達された結果に外なりません。
『今、ここ』にいるとは、“動物的な勘”や“動物的な反射神経”で生きることに外ならないわけであり、(内部)記憶に頼らない生き方であるのです。
わたしたち人間も(内部)記憶に頼らないで生きているのです。
(外部)記憶で生きていることは、「在り方」で生きていることであります。
(内部)記憶で生きていることは、「考え方」で生きていることであります。
生きているということは、「在り方」で生きていることに外なりません。
わたしたち人間だけが分裂動物である所以で、四苦八苦する生き物である所以です。
「悟り」、「覚醒」、「愛」とは、出家して厳しい修行をしたり、座禅三昧の境地を追い求めたり、「利自心」を捨て「利他心」を実践することで到達する境地ではなくて、他の生きもののように反射神経的に生きることであり、過去や未来といった水平的実時間の介入を許さない、垂直的虚時間の世界つまり『今、ここ』に生きることに外ならないのであります。