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Chapter 804 清水の舞台から飛び下りたイエス イエス・キリストが十字架に架けられて死んだ後、復活したと、新約聖書では述べられています。 肉体が生き返ったわけではありません。 意識が生き返ったことを象徴しているのです。 水平的な生き方の意識から、垂直的な生き方の意識に変身したことを、復活と呼んでいるのであります。 過去から未来へと流れる量的(実)時間に沿って、水平的な世界を生きることから、質的(虚)時間に沿って、垂直的な世界を生きることへの変身を象徴しているのが十字架であるのです。 十字架の交差する点こそが『今、ここ』であります。 わたしたち凡夫の生き様は、肉体は生きていても、意識は死んでいる。 イエス・キリストの生き様は、肉体は死んでいても、意識は生きている。 わたしたち凡夫の生き様は、肉体は醒めていても、意識は眠っている。 イエス・キリストの生き様は、肉体は眠っていても、意識は醒めている。 「悟り」、「覚醒」、「愛」に至る生き方とは、意識が醒めているかどうかに掛かっているのであり、過去から未来へ流れる(実)時間に沿って生きている限り、意識が醒めることは有り得ません。 “時は金なり”は“時は神なり”に外ならない。 拝金主義は拝神主義に外ならない。 御利益を求める大衆から賽銭を掠め取っていた宗教者(律法学者)を、イエスが糾弾したのは、拝金主義は拝神主義に外ならないことを説いたからです。 1万数千年の人類の歴史は、水平的な偽物の生き方をしてきた歴史であり、その結末が人類の大群発生であります。 水平的な(実)時間の世界と、垂直的な(虚)時間の世界との交差する点が『今、ここ』です。 水平的な(実)時間の世界で生きている、つまり過去や未来に思いを馳せて生きている、わたしたち凡夫も、イエス・キリストと同じように、『今、ここ』を生きているのですが、イエス・キリストは『今、ここ』から『ここ』にジャンプしたのです。 イエス・キリストは勇気を奮って清水の舞台から飛び下りたのです。 わたしたち凡夫は勇気を奮えず清水の舞台から飛び下りられないでいるのです。 『今、ここ』から『ここ』にジャンプしたイエスはキリストになったのです。 『今、ここ』から過去や未来に思いを馳せているわたしたちは賽銭箱に賽銭を入れ続けるのです。 『今、ここ』にいることには変わりはないのですが、『今、ここ』と『ここ』の間には、深淵(Abyss)が横たわっているのに、『今、ここ』の『今』の両側には過去・未来が繋がっているのです。 『今』は現在であります。 『今、ここ』は現在ではありません。 『ここ』がない『今』は過去や未来に繋がる現在なのです。 従って、『今、ここ』にいることを自覚するには、『ここ』にジャンプするしかないのです。 “清水の舞台から飛び下りる”勇気を奮わなければ、垂直的な本物の世界に生きることはできないのです。 イエス・キリストはその勇気を奮っただけのことであります。 わたしたち凡夫はその勇気を奮えないだけのことであります。 |