Chapter 807 真我と自我(エゴ)

『今、ここ』にいることは、自我(エゴ)の死滅に外なりません。
自我(エゴ)の死滅は真我の復活に外なりません。
イエスが十字架に架けられて死んだ後、復活したのは真我の復活であったわけです。
「夢の中の眠り」では、自我(エゴ)のことを「私」と呼び、真我のことを「わたし」と呼んできました。
意識が醒めた状態を真我と言い、意識が眠った状態を自我(エゴ)と言うわけです。
『自分が・・・』と思う限り真我ではなく、所詮は複数の「私」の状態であり、複数の「私」ゆえ、分裂するのであります。
未来に思いを馳せるということは、過去に思いを馳せた結果であると申しました。
つまり、過去に思いを馳せることは、同時に、未来に思いを馳せるわけですから、複数の自分つまり「私」でないとできないのです。
唯一の真我は唯一の『今、ここ』にしかおれないのです。
唯一の「わたし」は『今、ここ』にしかおれないのです。
意識が醒めた状態は『今、ここ』でしか在り得ないのです。
過去や未来に思いを馳せることは、その思いが夢膨らむ希望の星であっても、所詮は分裂状態の複数の「私」が思う連想に過ぎないのであり、連想は決して未来に実現しないのです。
実現するのは『今、ここ』しか在り得ないのです。
実現した過去とは、過去における『今、ここ』に外ならないのであり、実現する未来とは、『今、ここ』の過去に外ならないのであります。
未来に実現するものはすべて『今、ここ』の過去であることを忘れてはならない。
過去を悔やむということは、『今、ここ』を生きていなかった証明です。
未来を思い煩うということは、『今、ここ』を生きないという宣言です。
実現した過去、実現するであろう未来は、すべて『今、ここ』を生きた証であるのです。
従って、過去を悔やみ、未来を取り越し苦労することは、決して実現しない映像の世界に生きていることであります。
『今、ここ』を生きた結果が実現した過去であり、『今、ここ』を生きることで実現可能な未来が開けるのです。
未来に思いを馳せた結果、夢が叶うわけではないのです。
『今、ここ』を生き切った結果、夢が叶うのであります。
「思い」とは複数の「想い」である連想のことに外なりません。
単数の「想い」は『今、ここ』でしか起こらない感情であります。
『今、ここ』では「想い」です。
過去と未来では「思い」です。
『今、ここ』は三元論です。
過去と未来は二元論です。
『今、ここ』は全体観です。
過去と未来は部分観です。
「在り方」は「想い」です。
「考え方」は「思い」です。
真我が『今、ここ』です。
自我が過去と未来です。