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Chapter 811 随所にある『今、ここ』 全体観=静止一如 部分観=相対運動 地球上に住んでいるわたしたちは、地球が自転運動と公転運動をしていることを、知識として知っていますが、現実的には認識していません。 現実的には静止している感覚であります。 わたしたちにとっては、地球が全体観であり、自分が部分観であるからです。 コペルニクスの時代の人間は、地球は静止していて、天空が動いていると信じていましたが、現代においても何ら変わっていないのです。 信じるということは、知ること(知識)に外ならない証明であります。 信じるということは、経験するということではないのであります。 認識するということは、知ること(知識)でなく、経験することに外ならないのです。 部分観である間は、『今、ここ』にいることはできません。 わたしたちは、電車に乗っている時は、電車の動きを感じていません。 電車は走っている(動いている)のですが、電車の中にいるわたしたちは静止しています。 電車が全体観で、自分が部分観であるからです。 「全体と部分の相対性の法則」は、ここにも厳然と働いている。 ところが、突然、電車が脱線事故に遭遇すると、電車に乗っている人たちは、電車と同じ全体観に放り込まれ、自分自身も電車と同じ動きをして、脱線事故の状態に放り込まれるわけです。 まさに『今、ここ』にいるわけです。 地球が脱線事故に遭遇したら、地球が時速1,875kmの速度で自転し、時速10万8千kmの速度で公転しているのを経験する筈であります。 これは一体何を意味しているのか。 『今、ここ』にいるということは全体観という現実であり、過去や未来に思いを馳せているのは部分観という知識であるということに外ならないのです。 運動している、つまり、生きているということは部分観に過ぎない知識である。 静止している、つまり、死(誕生)が全体観という現実であり、経験である。 知識は現実ではない。 経験が現実である。 自分以外のものはすべて映像であり、現実は自分だけである所以です。 誕生・生・死の円回帰運動とは、全体観から部分観そして全体観に戻ることに外ならないのです。 わたしたちの150億光年の拡がりを持つ宇宙も、ビッグバンによって誕生した時に、全体観から部分観に放り投げられた結果、運動しはじめ、いつかは全体観に戻る時がやってくるのです。 わたしたちひとり一人も、母親という全体観から、部分観に放り投げられた結果、運動しはじめ、生を受けたわけですが、いつかは全体観に戻る時がやってくるのであり、それが死であります。 誕生とは全体観から部分観へ放り投げられること。 生とは部分観でいること。 死とは再び全体観に戻ること。 わたしたちの誕生・生・死の円回帰運動は、一生という最長形態から、息という最短形態の間で、無数の形態があると申しました。 “死は随所にある” そのことを自覚することが『今、ここ』にいることであり、『今、ここ』は随所にあるのです。 |