Chapter 823 心の王国

見果てぬ夢を観ている人は意識が眠った生き方をしている。
夢を実現している人は意識が醒めた生き方をしている。
意識が眠った生き方とは、過去や未来に思いを馳せて生きることです。
意識が醒めた生き方とは、『今、ここ』を生きることです。
過去に起こった出来事は『今、ここ』の結果であり、未来に起こるであろう出来事も『今、ここ』の結果であることを先ず知らなければなりません。
実現可能な機会は『今、ここ』しかないのに、折角の『今、ここ』を過去や未来に思いを馳せて生きている限り、実現の機会を逃し続けることになります。
「悟り」、「覚醒」、「愛」の実現も、この世的成功の実現も、すべて『今、ここ』を生きた結果であります。
過去や未来に思いを馳せる生き方を続ける人は、「悟り」、「覚醒」、「愛」どころか、この世的成功も覚束ない、支配・被支配二層構造社会における被支配側一般大衆であります。
この世的成功を実現しているのが支配・被支配二層構造社会における支配側の連中であります。
何れにしても、「悟り」、「覚醒」、「愛」を生きるレベルから程遠い生き方でありますが、この世的成功を成し遂げた連中は、動機不純な卑小なことながら、何かを実現したことは確かであり、この世的成功とはそのようなものである証明でもあります。
一般大衆はもっと酷い生き方をしている。
従って、この世的成功とは、意識が眠った者たちの世界での相対的優位性に過ぎないことを、この世的成功を成し遂げた連中は気づかなければなりません。
意識が眠り続けている一般大衆あっての、この世的成功であることを知らなければなりません。
支配・被支配二層構造社会あっての、この世的成功であることを理解しなければなりません。
この世的成功を成し遂げた連中の力(権力・金力)は、一般大衆に対してのみ有効であり、「悟り」、「覚醒」、「愛」を実現した人に対しては全く無力であります。
世界を制覇したアレキサンダー大王が、覚者ディオゲネスに会って衝撃を受けた逸話がある。
“自分は世界を手中にして、欲しいものは何でも手に入る。欲しいものがあるなら言ってみよ!”
誇らし気にディオゲネスに言った。
“わたしはいま日光浴を楽しんでいるのに、それをあんたが邪魔をしている。そこをどいてくれないか!それさえ呉れたらわたしは充分だ!欲しいものはそれだけさ!”
裸のディオゲネスがアレキサンダーに言った。
世界を制したアレキサンダーが、乞食姿のディオゲネスに対して惨めな思いをして内心呟いた。
“ディオゲネスが大王で、自分が乞食の気分だ!”
この世的成功とは、所詮その程度のものなのです。
結局の処、意識が醒めた生き方をしているかどうかに、人生のすべてが掛かっているのです。
いくら世界を制する生き方をしても、意識が眠っていては精神的(意識的)乞食に過ぎません。
たとえ姿形は乞食であっても、意識が醒めていたら精神的(意識的)には大王であります。
肉体が生きている(運動している)から精神(意識)があると申しました。
肉体が幸福だとか、天国だとか、金持ちだとか、健康だとかを希求しているのではありません。
いくら幸福をたくさん持っていても、いくら天国をたくさん持っていても、いくら金をたくさん持っていても、いくら健康をたくさん持っていても、肉体が消化できる量はたかが知れています。
精神(意識)が多くの幸福(感)を持ち、多くの天国(感)を持ち、多くの金(感)を持ち、多くの健康(感)を持つだけのことです。
その精神(意識)が乞食では、いくら多くの幸福(感)を持っても、いくら多くの天国(感)を持っても、いくら多くの金(感)を持っても、いくら多くの健康(感)を持っても、乞食は所詮乞食であります。
いくら不幸をたくさん持っていても、いくら地獄をたくさん持っていても、いくら貧乏をたくさん持っていても、いくら病気をたくさん持っていても、精神(意識)が乞食でなくて大王なら何の不自由もありません。
自由の本質とは、心(意識)の自由であって、肉体の自由ではないのです。
この世的成功をすればする程、心(意識)の自由を喪失していくのですから、この世的には大王になれても、心(意識)の世界では乞食であり続けるのです。
真の大王になれる王国は心の王国だけであることを肝に銘じておくことが肝要であります。