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Chapter 832 絶対性理論の構築 アインシュタインの相対性理論を、「二元論」、「全体と部分の相対性の法則」、「在り方と考え方」に置き換えますと、相対的一元論、部分観、考え方に外なりません。 相対性とは運動法則(物理法則)に外ならない。 一方、絶対性理論を、「二元論」、「全体と部分の相対性の法則」、「在り方と考え方」に置き換えますと、相対的二元論、全体観、在り方に外なりません。 絶対性とは静止法則に外ならない。 生きているということは、動いている(運動している)ことに外ならないわけですが、運動しているということは運動一如ではなく、静止と運動の繰り返しに外ならないことを見逃してはなりません。 静止しているということは静止一如のことであります。 生は誕生・生・死の円回帰運動の円周であるのに対し、誕生は始点、死は終点である、つまり誕生・死は静止一如の絶対性の世界であるのに対し、生という円周は運動・静止の繰り返しである相対性の世界であります。 一生という最長形態の円周もあれば、一息という最短形態の円周もあり、その間に無数の円周があるが、誕生(始点)と死(終点)は絶対的一点であります。 150億年前にビッグバンによって、運動の光と音(喧噪)の全体宇宙が誕生して以来、わたしたちの宇宙は運動を続けていますが、運動の本質は、運動と静止の繰り返しであり、静止が実体あるもので、運動は静止の不在概念であるのです。 静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙が在ってこそ、運動の光と音(喧噪)の全体宇宙が在り得るのです。 無限の(果てのない)宇宙が在ってこそ、有限の(果てのある)宇宙が在り得るのです。 母親あってこそ、子供が生まれる。 母親(メス)が静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙であって、子供が運動の光と音(喧噪)の全体宇宙であり、男(オス)とは子供に外ならないのです。 メスという静止の暗闇と沈黙という「無」の絶対宇宙から、オスという運動の光と音(喧噪)という「有」の全体宇宙が生まれるのです。 運動の光と音(喧噪)の全体宇宙が運動一如であれば、相対性理論で充分かも知れませんが、運動と静止の繰り返しが運動の本質であり、静止が実体あるもので、運動は概念に過ぎないのですから、運動の光と音(喧噪)の全体宇宙でも、相対性理論は絶対性理論の一部(部分観)に過ぎず、充分とは言えません。 わたしたち人類だけが錯覚の生き方をしていると何度も述べてきました。 誕生(+)・生(0)・死(-)という三つの基本法則が円回帰運動の原点であり、地球という惑星レベルになると、「二元論」、「全体と部分の相対性の法則」、「在り方と考え方」に分化した結果、生・死二元の生を好いとこ取りして、オス・メス二元のオスを好いとこ取りして、善・悪二元の善を好いとこ取りして、強・弱二元の強を好いとこ取りして、賢・愚二元の賢を好いとこ取りして、貧・富二元の富を好いとこ取りして、幸・不幸二元の幸福を好いとこ取りして、天国・地獄二元の天国を好いとこ取りして、健康・病気二元の健康を好いとこ取りして、神・悪魔二元の神を好いとこ取りして、全体観・部分観二元の部分観を好いとこ取りして、在り方・考え方二元の考え方を好いとこ取りしたのが相対性理論であると言っても過言ではない。 アインシュタインは絶対的平和など信じていないで、相対的平和を信じていたから、原爆開発をアメリカに促したのです。 ヒットラーのナチス・ドイツを悪として、彼らに対しての暴力行為は善と見なしていたのであり、明らかに、善を好いものとして、悪を好くないものとする、好いとこ取りの相対的一元論の考え方であります。 宗教勢力が常に謳う「聖戦」と同じ発想です。 オスを好いものとして、メスを好くないものとする、好いとこ取りの相対的一元論の考え方であり、男性社会を好いものとする、差別・不条理・戦争による相対的平和論者であったわけです。 相対性理論は所詮人間社会だけに通じる考え方に過ぎないのです。 宇宙全体、地球レベル、自然界まで通じる在り方は絶対性理論であります。 考え方は理論ですが、在り方を理論とできるかどうかの結論は先に持ち越すことに致します。 |