Chapter 835 真の人間解放

祭政一致という言葉があります。
政教分離という言葉があります。
この二つの言葉こそ二律背反用語に外なりません。
近代民主主義社会では政教分離が常識になっていますが、古代奴隷社会及び中世荘園制度-荘園制度とは宗教者が土地を所有する権利を得た制度のことであり、宗教者が支配階級の一角を占めた制度である-社会では祭政一致が常識になっていました。
政治のことを政(まつりごと)と言い、祭り事(まつりごと)でもあるのが、古代・中世の人間社会の常識であったわけです。
近代化とは、政治が宗教と癒着した古代・中世社会からの脱却にあったわけで、ヨーロッパで興った近代化のための三種の神器であるルネッサンス・宗教革命・産業革命の核は宗教革命にあったのです。
現代社会に生きるわたしたちは、宗教は現実社会とは一線を画したものであると考え勝ちであり、政教分離という言葉の背景には、古代・中世からの脱却の意味が込められているのであり、支配・被支配二層構造社会からの解放の意味が込められているのであります。
民主主義社会とは、支配・被支配二層構造社会からの解放された社会である筈です。
民主主義社会とは主権在民の社会であります。
政治家・役人は主権者である国民の僕(しもべ)つまり公僕であります。
近代化が興って、ヨーロッパでは早や500年が過ぎ、日本でも150年が経過したわけですが、真の近代化である民主主義社会は未だに実現されていないと言っても過言ではない。
政治家・役人が国民を尊敬する社会こそ、主権在民の民主主義国家であります。
民主主義社会では、国民のレベル以上の政治家・役人は輩出しないのが常識である所以は、公僕が主権者を尊敬するのが当たり前だからです。
古代・中世における支配・被支配二層構造社会では、王家・貴族・将校・宗教者たち支配階級が主権者であり、一般大衆-当時は国民という言葉はなかった-は所詮被支配階級つまり奴隷であり、人間ではなかったのですから、国民などと呼ばれていなかったのです。
国民という言葉の背景には主権者という意味が込められており、政治家・役人という公僕が尊敬する国民であることが前提にあるのです。
聖職とは、支配階級にありながら一般大衆の為に尽くす職業のことであり、政治家・役人・宗教者が聖職者と呼ばれてきた所以でありますが、何故聖職かと言うと、支配階級に在りながら、被支配階級のために尽くす職業だからであります。
聖職という言葉は、古代奴隷社会や中世荘園制度社会にはなかった言葉であります。
近代社会になっても、政治家・役人・宗教者たちが支配者となる危険性があるから、敢えて聖職者と呼んで、彼らを戒めたわけです。
役人に対する戒めで埋め尽くされている十七ヶ条憲法が、六世紀に生きた聖徳太子によってつくられた-実際にはもっと後世につくられたとも言われていますが-ことは特筆すべき出来事であったと言えます。
現代社会になっても未だに、政治家・役人・宗教者たちは国民を尊敬するどころか、古代・中世同様、蔑んでいるのです。
聖職者とは、国民から尊敬されるだけではなく、国民を尊敬するからこそ聖職者たり得るのです。
二十世紀はその縁が見えかけた世紀であったのですが、科学という化け物がぶち壊してしまった結果、暗黒の二十世紀に成り果ててしまったのです。
十五世紀から始まった近代化は未だに為されていないのが実態であります。
真の近代化とは、尊敬される国民の出現が絶対条件であり、国民を尊敬する聖職の復活なくしてあり得ないのです。
政治家・役人・宗教者・医者・学者・教育者・・・といった連中が、この世的成功者のカテゴリーに入っている限り、真の近代社会は遠い先の話であります。
高度自由社会とは真の近代社会であり、一般大衆が国民になる社会であり、国民を尊敬する公僕が聖職者になる社会であります。
高度な自由を得た尊敬される国民とは、神(光)と法律(時間)の呪縛から解かれた人間に外なりません。
相対性理論の呪縛から自らを解き放ち、絶対性理論を打ち立てることこそが、真の近代化の幕開けであり、人間解放の真の意味であります。
二十一世紀は宗教が消滅する世紀であると主張する所以であります。