Chapter 836 真の支配者・時間

人間だけが思い悩む人生を送るのは、時間に振り回されるのが原因です。
他の生き物には時間の概念などありません。
時間の概念がなければ、過去や現在や未来の概念が当然ないわけですから、必然『今、ここ』しかおれない。
知性を得た生き物・人間ですが、知性は外敵から身を守るために自然発生したもので、爪や牙がないという弱き生き物であった故に、“必要は発明の母”的に誕生したものであるのに対し、時間の概念はもっと後代になってからのものであります。
原始生活をする人たちはいまでも存在していますが、彼らには弓や槍といった武器はあるが、時間の概念は、太陽が昇り沈むことによる朝・昼・夜と、太陽の高さが変化する春夏秋冬、つまり一日と一年の概念だけであり、それは時間ではなく、季(とき)の概念であり、季(とき)の概念は他の生き物すべて、つまり、動物・植物・鉱物にもあります。
春になったら桜が花を咲かせ、夏になったらヒマワリが花を咲かせ、秋になったら菊が花を咲かせ、冬になったら萩が花を咲かせるのは、彼ら植物が季(とき)を知っているからに外なりません。
朝・昼・夜および春夏秋冬は時間の概念ではなく、季節の概念であるだけです。
それでは時間の概念とは一体何であるのでしょうか。
一年365日は時間の概念ではありません。
一日24時間も時間の概念ではありません。
一時間60分も時間の概念ではありません。
一分60秒も時間の概念ではありません。
況や、一週間七日などは時間の概念ではまったくありません。
これらは人間が勝手につくった概念ではあるが、季(とき)を分割しただけで、時間の概念ではありません。
時間の概念の正体とは、過去・現在・未来の区分けに外ならないのであり、『今、ここ』の忘却こそが時間の概念の正体と言った方が適切でしょう。
何故人間だけが『今、ここ』を忘却しなければならなかったのか。
人間以外の生き物はすべて、動物・植物・鉱物に拘わらず、過去・現在・未来の概念など持ち合わせていないのに、何故人間だけが過去・現在・未来の概念を持つ羽目になったのか。
二十世紀にアインシュタインによって相対性理論が確立された結果、時間の概念がより正確に説明されたが、大昔から、過去・現在・未来の概念はあった。
旧約聖書に予言者が登場します。
予言者は預言者でもあったと言われています。
予言者は未来を予見する人のことであり、預言者とは神の言葉を預かった人のことであります。
過去・現在・未来という時間の概念をつくった張本人は宗教であったのです。
宗教は支配・被支配二層構造社会を構築した支配者側の支配する方便として発生したものであることは何度も述べてきました。
政(まつりごと)は祭り事(まつりごと)であるわけです。
信仰は外敵から身を守る方便であったのに対し、宗教は内敵から身を守る方便であったわけで、時間の概念は内敵から身を守る方便としてつくられたのであります。
支配者にとっての内敵は被支配者であり、被支配者にとっての内敵は支配者であったのです。
支配者にとっての内敵から身を守る方便である宗教者は祭司であり、被支配者にとっての内敵から身を守る方便である宗教者は救世主であったわけです。
結局の処、時間の概念の発生原因は政治的であったわけです。
支配されるということの基には、時間から支配されるという観念があるからで、時間から支配されるとは、過去や未来に思いを馳せることに外ならないのであり、『今、ここ』にいると支配する、支配されることができないのです。
他の生き物には、支配・被支配の概念はありません。
ボスは外敵から守る防衛庁長官であって国家元首ではない、つまり、支配者ではないから、時間の概念がないのです。
人間社会だけに支配・被支配の概念があり、時間の概念がある。
支配・被支配二層構造の階級社会と世襲・相続の差別社会は表裏一体のものであると何度も述べてきましたが、世襲・相続の考え方こそ、予言者の予言の実現に外ならないのです。
わたしたちは同じ人間から支配されてきましたが、何故そんなことが可能であったのかを検証してこなかった。
目に見えない影の支配者がいたからです。
影の支配者こそ時間、つまり、過去・現在・未来の概念に外なりません。
時間を人間の上に位置づけることを決定づけたのが相対性理論に外なりません。
支配・被支配二層構造の差別社会から脱却する切り札は、忘却していた『今、ここ』を個人個人が思い起こすことにあるのです。
絶対性理論の切り札は『今、ここ』であります。