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Chapter 846 量的時間から質的時間へ 知性を得た人類は、どうやら勘違いの人生を送る羽目になったようです。 朝目が醒めた瞬間(とき)から、夜眠りに就く瞬間(とき)まで勘違いの連続の中で生きている。 知性とは好いとこ取りの二元論の増長と言い換えていいぐらい勘違いの原因になっているわけで、勘違いとは好いとこ取りの二元論に外なりません。 知性とは部分観の増長と言い換えてもいいぐらい勘違いの原因になっているわけで、勘違いとは部分観に外なりません。 知性とは考え方の増長と言い換えてもいいぐらい勘違いの原因になっているわけで、勘違いとは考え方に外なりません。 運動の光と音(喧噪)の全体宇宙という運動(円回帰運動)する宇宙の基本法則である三の法則(誕生・生・死)が、惑星レベルにまで分化した四十八の法則の根幹を成す、「二元論」、「全体と部分の相対性の法則」、「在り方と考え方」の誤用を、知性を得た人間だけが冒しているからであります。 知性の進化が科学を生んだわけですが、運動の光と音(喧噪)の全体宇宙の基本法則である誕生・生・死の円回帰運動の一過程でもあるわけですから、知性はある意味で進化と退化過程つまり産みの苦しみと言ってもよい。 誕生と死が実体あるもので、生は映像に過ぎないわけですが、誕生という始点が死という終点に円回帰するための必要過程であるわけです。 一元論(誕生)・二元論(生)・三元論(死)とは、(無知性の一)から(二)を経て(三つまり有知性の一)に円回帰する。 わたしたちの人生も、宇宙の人生とまったく同じメカニズムで成っているから、生まれた時(始点)から死(終点)への行進(進化と退化)の旅が始まるわけで、死への行進(進化と退化)の旅こそが人生に外なりません。 始点から始まって終点に戻るのですが、始点が終点でもあるのが円回帰運動に外ならない。 線的運動(二次元水平的運動)であれば、始点と終点は同じにはなり得ないが、円回帰運動(三次元立体運動)だから始点が終点になり得る。 勘違いの根源はここにある。 永遠という言葉があります。 線的運動(二次元水平的運動)における永遠とは、始点がなく、終点もないことを言うわけで、位置的永遠性のことであります。 円回帰運動(三次元立体運動)における永遠とは、始点と終点が同じことを言うわけで、運動的永遠性のことであります。 わたしたちの宇宙は運動的永遠性を本質として有しているにも拘わらず、わたしたち人間だけが位置的永遠性を希求している。 勘違いの根源がここにあり、その結果、「二元論」、「全体と部分の相対性の法則」、「在り方と考え方」の誤用を冒しているのであり、その最たるものが、時間の誤用であります。 時間を線的運動(二次元水平的運動)で捉えている。 時間を線的運動(二次元水平的運動)で捉えているから、過去・現在・未来という概念が生じるわけです。 過去・現在・未来という時間の概念の誤用が更に亢進して、1秒前・1秒後、1分前・1分後、1時間前・1時間後、1日前・1日後、1ヶ月前・1ヶ月後、1年前・1年後という前後がついていることを以て過去・現在・未来である筈が、1秒・1分・1時間・1日・1ヶ月・1年という時間の概念の誤用が為された。 これらの誤用の原因は、時間を線的運動(二次元水平的運動)で捉えた結果であり、時間の始まり(始点)と時間の終わり(終点)が永遠つまり無いという位置的永遠性を希求したからです。 時間を円回帰運動(三次元立体運動)で捉えれば、時間の始まり(始点)は時間の終わり(終点)である運動的永遠性に気づく筈であります。 時間を円回帰運動(三次元立体運動)で捉えるとは、時間を過去・現在・未来や、1秒・1分・1時間・1日・1ヶ月・1年といった量的に捉えるのではなくて、時間を高い・低い、浅い・深いといった質的に捉えることであります。 時間の物差しを抜本的に変えることが、勘違いの人生から脱却する切り札であり、そのヒントが『今、ここ』であります。 『今、ここ』が、線的運動(二次元水平的運動)で捉えた時間と円回帰運動(三次元立体運動)で捉えた時間の交差点であるからです。 |