Chapter 850 間違いだらけの人類

過ぎ去った過去は憶えているが、未だ来ぬ未来は憶えていない。
記憶という映像(光景)の原点(原風景)が過去にあり、映像の流れが過去から未来への一方通行の所以であります。
時間が過去から未来への一方通行と思い込んできたのは、記憶が過去だけのものであり、過去から未来へとパラパラ捲る静止画面(原風景)一枚一枚であるからです。
映像を映すのは静止画面、つまり、記憶の原風景である静止画面をパラパラ捲る動作に外ならないわけですが、静止画面をパラパラ捲る動作は決して一方通行ではありません。
未来から過去へパラパラ捲ることも可能なわけであり、静止画面をパラパラ捲ることによって生じる映像(動画面)の所以がここにあります。
実体ある静止画面は静止一如ですから、流れ(運動)はない。
実体のない動画面は静止・運動の繰り返し動作ですから、流れ(運動)があって、しかもその流れは両側通行である。
流れ(運動)というものは両側通行であることが本質であります。
片側(一方)通行の流れなど本来ない。
運動の本質は両側通行であるのに、無理やり一方通行にする。
好いとこ取りの相対的一元論とは、両側通行が本来である二元論を歪曲させたものであるわけです。
一方通行が二元論の本質であるなら、幸福な人間はますます幸福になっていく筈であります。
一方通行が二元論の本質であるなら、不幸な人間はますます不幸になっていく筈であります。
一方通行が二元論の本質であるなら、金持ちの人間はますます金持ちになっていく筈であります。
一方通行が二元論の本質であるなら、貧乏な人間はますます貧乏になっていく筈であります。
一方通行が二元論の本質であるなら、好きになる人間はますます好きになっていく筈であります。
一方通行が二元論の本質であるなら、嫌いになる人間はますます嫌いになっていく筈であります。
しかし現実には、幸福な人間も不幸になるし、不幸な人間も幸福になっている。
しかし現実には、金持ちの人間も貧乏になるし、貧乏な人間も金持ちになっている。
しかし現実には、好きになる人間も嫌いになるし、嫌いになる人間も好きになっている。
幸福と不幸の道は決して一方通行ではなく、両側通行なのです。
金持ちと貧乏の道は決して一方通行ではなく、両側通行なのです。
好き嫌いの道は決して一方通行ではなく、両側通行なのです。
生・死、オス・メス、善・悪、強・弱、賢・愚、貧・富、幸・不幸、天国・地獄・・・健康・病気、神・悪魔・・・といった二元要因が補完関係にある一枚のコイン(表裏一体)であるのに、対立関係にある二枚のコイン(表のコインと裏のコインを別物とする)といった土台不可能なものにした挙げ句に、更に表のコインだけを欲しがり、裏のコインを忌避するという無理難題を要求しているのが、わたしたち人間であります。
土台不可能なことを無理やり可能にしようとするとフラストレーションが溜まります。
このフラストレーションこそが四苦八苦の原因に外ならないのです。
「二元論」における好いとこ取り相対的一元論。
「全体と部分の相対性の法則」における部分観。
「在り方と考え方」における考え方。
がフラストレーションという乖離(ギャップ)の原因であります。
偽モノの好いとこ取りの相対的一元論が本モノの相対的二元論を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
偽モノの部分観が本モノの全体観を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
偽モノの考え方が本モノの在り方を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
一方通行が両側通行を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
時間は過去から未来へ一方通行で流れるとする考え方が、時間は過去と未来の間を両側通行する在り方を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
過ぎ去った過去は憶えているが、未だ来ぬ未来は憶えていないとする考え方が、過ぎ去った過去も憶えているが、未だ来ぬ未来も憶えている在り方を凌駕しようとするからフラストレーションが溜まるのです。
知性を得たわたしたち人類も、もういい加減、目を覚まさなければなりません。