Chapter 852 実体(実像)と映像(虚像)

静止と運動の関係は実体(実像)と映像(虚像)の関係であります。
実体(実像)は静止状態にあり、実体(実像)が運動したものが映像(虚像)であるわけです。
映画フィルムがそのメカニズムを表しています。
スクリーンに映っている映像は動画面ですが、その基になる映画フィルムは一枚一枚の静止画フィルムです。
映画フィルム自体が動画フィルムになっているわけではありません。
一枚一枚の静止画フィルムをパラパラと捲る-実際には映写機で早送りする-と、スクリーンに動画面が映し出されるわけです。
一枚一枚の静止画フィルムは撮影カメラで撮った原像つまり実体(実像)です。
撮影カメラで撮った原像こそが、『今、ここ』の原風景であります。
わたしたちが現実だと思っている世界は実は映像(虚像)の世界であり、映像(虚像)の原像は『今、ここ』の積み重ねに過ぎないことが、映画フィルムが見事に表しているのであります。
静止画フィルムは空間つまり三次元世界であり、動画面が時空間つまり四次元世界であります。
四次元世界とは三次元世界の映像(虚像)に外ならない。
実体(実像)は三次元世界であり、四次元世界は映像(虚像)に過ぎない。
『今、ここ』が実体(実像)であり、運動つまり円回帰運動の最短形態である一息から、一秒・一分・一時間・一日・一年・一生という四次元世界は映像(虚像)に過ぎない。
一息間の映画。
一秒間の映画。
一分間の映画。
一時間の映画。
一日間の映画。
一年間の映画。
一生間の映画。
一息から一生までの四次元世界の違いは映画の時間の長短の違いだけであります。
詰まる処、ビッグバンによって誕生したという運動の光と音(喧噪)の全体宇宙というものも、静止の暗闇と沈黙の絶対宇宙の映像(虚像)に外ならない。
運動とは静止の映像(虚像)に外ならない。
映画を映すには映写機が要ります。
わたしたちひとり一人の実体(実像)である三次元世界を、四次元世界つまり動く映像(動画面)として映し出す映写機兼スクリーンが五感に外なりません。
視覚中心の動物である人間ですから映像と表現していますが、嗅覚中心の動物である犬ならば嗅像と言った方が適切でしょう。
生まれつき目の不自由な聴覚中心の人ならば聴像と言った方が適切でしょう。
夢を観るのは、視覚中心なら映像、聴覚中心なら聴像、嗅覚中心なら嗅像、味覚中心なら味像、触覚中心なら触像であるわけで、畢竟、実体(実像)である三次元世界の映像(虚像)を映し出す映写機兼スクリーンは五感であります。
視覚中心で生きているわたしたち人間の映写機は眼球であり、スクリーンが網膜であります。
わたしたちが現実だと思い込んでいる世の中は、自己の映写機で映し出された映像(虚像)に外ならないのであり、所謂現実だと主張する所以であります。
所謂現実に対して、本当の現実つまり実体(実像)あるのは、一枚一枚の静止画フィルムという原像の原風景である『今、ここ』だけです。
その『今、ここ』を、過去を悔やみ、未来を取り越し苦労する、つまり、過去や未来に思いを馳せて生きることによって逃がし続けている限り、静止画フィルムには何も撮影されず、結局の処、何も実現しない一息から一生になります。
使命を果たすとは一息・一秒・一分・一時間・一日・一年・一生の原点である『今、ここ』という静止画フィルムを撮影することであり、使命を未だ知らないということは一息・一秒・一分・一時間・一日・一年・一生の原点である『今、ここ』を逃し続けた結果の真っ白な映画フィルムのことであります。