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Chapter 918 質的生き方と量的生き方 現代人は時間に支配されて生きている結果、量的志向の生き方を余儀なくされています。 理由は支配されている時間、つまり、過去・現在・未来という時間の物指しが水平的拡がりを持つものだからであります。 水平的拡がりを持つ物指しとは近い(短い)・遠い(長い)という量的尺度に外なりません。 量的尺度とはアナログ的(連続的)であると言ってもいいでしょう。 過去・現在・未来とはアナログ的(連続的)時間であり、過去と現在、現在と未来は連続的、つまり、繋がっているのであって、独立しているわけではないのです。 因果応報、原因と結果の法則はアナログ的時間に基づく「考え方(概念)」であり、現在は過去の一部であり、未来の一部でもあり、従って、過去は未来でもあり、未来は過去でもあり、畢竟、過去も現在も未来も境界が無いことになります。 本来境界が無い筈の過去・現在・未来を無理やり境界をつくって生きようとしているのが、知性有る生き物・人間であり、知性有る人間だけが悩み・四苦八苦の人生を送る原因がここにある。 無知性の他の生き物は「考え方(概念)」など無く、「在り方(観念)」で生きています。 他の生き物は過去・現在・未来という時間の「考え方(概念)」など無く、朝・昼・夜・春・夏・秋・冬という季(とき)の「在り方(観念)」で生きています。 「考え方(概念)」とは理論的であり必然的であります。 「在り方(観念)」とは経験論的であり偶然的であります。 「考え方(概念)」で生きている者は、起こることはすべて必然的と捉えます。 「在り方(観念)」で生きている者は、起こることはすべて偶然的と捉えます。 起こることはすべて必然的と捉える者は主観・客観二元論的になり、生・死二元、オス・メス二元、善・悪二元、強・弱二元、賢・愚二元、貧・富二元、幸・不幸二元、天国・地獄二元・・・健康・病気二元・・・挙げ句の果てに神・悪魔二元と発展して、必然とは神の所業と捉える、自己完結能力(自己責任)を放棄した、他人任せ(責任逃れ)の生き方をする。 起こることはすべて偶然的と捉える者は主観一元論的になり、起こることはすべて自己責任と受け入れる生き方をする。 主観・客観とは静止・運動に外ならない。 主観・客観とは自転・公転に外ならない。 主観・客観とは全体観と部分観に外ならない。 質的尺度とはデジタル的(非連続的)であるわけで、主観一元論的生き方と言えるでしょう。 起こることはすべて偶然と捉える、朝・昼・夜・春・夏・秋・冬という季(とき)の「在り方(観念)」で生きている他の生き物はデジタル的、垂直的(質的)虚時間の物指しで生きています。 彼らには、近い(短い)・遠い(長い)といった量的時間の概念が無いから、悩み・四苦八苦が無いのです。 垂直的(質的)虚時間、つまり、朝・昼・夜・春・夏・秋・冬というデジタル的な季(とき)の物指しで生きている無知性の生き物は、空腹を感じたら食べ、眠気を催したら眠り、性欲を催したら交尾をする。 水平的(量的)時間、つまり、過去・現在・未来というアナログ的な時間の物指しで生きている知性有る生き物・人間は、午前12時になったら空腹を感じなくても昼食を取り、午後10時になったら眠気も催さないのに睡眠を取ろうとし、眠れないからと言って、性欲を催さないのに年柄年中性行為をするという分裂的(二元論的)生き方をしているのですから、悩み・四苦八苦から解放されるわけがない。 眠気が無いのに無理やり眠ろうとするのが不眠症であり、睡眠を必要善と捉える錯覚に外なりません。 睡眠は死の一瞥であり、最長形態である一生から最短形態の一瞬までの円回帰運動の誕生(始点)・生(円周)・死(終点)の中の死(終点)の一形態であり、一生の死(終点)までは、円運動は繰り返すわけで、死(終点)=誕生(始点)ですから、死の一瞥である睡眠は一生の死、つまり、永遠の眠りだけであります。 必要善の眠りとは永遠の眠りだけであり、普段の眠りは必要悪であることを肝に銘じておくことが肝要です。 |