Chapter 925 二元論的である言葉

言葉が悩みの原因であり、従って、悩みを解消するには、言葉を単純化させることが肝腎だと以前述べました。
“私は病気で苦しい”
複雑化した言葉を単純化させる。
“私は”、“病気で”、“苦しい”
更に単純化させる。
“病気”
そうしますと、“私は苦しい”が剥げ落ち、悩みの実体が“病気”ではなく、“私は苦しい”にあることがわかります。
“私は苦しい”→“私は楽しい”に代えると、“病気”は“楽しい”ものに変わっているわけで、“病気”=“苦しい”とは限らない。
ところがわたしたちは、“健康は好いが、病気は悪い”と思い込んでいるから、“私は病気で苦しい”となるわけです。
幼稚な子供の頃は、病気に憧れることがあります。
知性が成熟していない結果でありますが、知性の功罪両側面を表象しているわけで、知性が成熟すると知性の功罪両側面が如実に表象するわけで、知性が未成熟な時は知性の功罪両側面の区分け(差別)が難しいわけで、病気に憧れるといった、知性が成熟した所謂大人にとっては幼稚極まり無いことをするわけですが、真理は実は其の辺にある。
“生は好くて、死は悪い”
“オスは好くて、メスは悪い”
“善は好くて、悪は悪い”
“強は好くて、弱は悪い”
“賢は好くて、愚は悪い”
“富は好くて、貧は悪い”
“幸福は好くて、不幸は悪い”
“天国は好くて、地獄は悪い”
“健康は好くて、病気は悪い”
“神は好くて、悪魔は悪い”
こういった考え方を持っているわたしたちは、“死”・“メス”・“悪”・“弱”・“愚”・“貧”・“不幸”・“地獄”・“病気”・“悪魔”という言葉に“私は苦しい”という言葉を付けて、“生”・“オス”・“善”・“強”・“賢”・“富”・“幸福”・“天国”・“健康”・“神”という言葉に“私は楽しい”という言葉を付けているわけです。
生・死二元は一枚のコインで、死が実体あるもので、生は死の不在概念に過ぎない。
オス・メス二元は一枚のコインで、メスが実体あるもので、オスはメスの不在概念に過ぎない。
善・悪二元は一枚のコインで、悪が実体あるもので、善は悪の不在概念に過ぎない。
強・弱二元は一枚のコインで、弱が実体あるもので、強は弱の不在概念に過ぎない。
賢・愚二元は一枚のコインで、愚が実体あるもので、賢は愚の不在概念に過ぎない。
貧・富二元は一枚のコインで、貧が実体あるもので、富は貧の不在概念に過ぎない。
幸・不幸二元は一枚のコインで、不幸が実体あるもので、幸福は不幸の不在概念に過ぎない。
天国・地獄二元は一枚のコインで、地獄が実体あるもので、天国は地獄の不在概念に過ぎない。
健康・病気二元は一枚のコインで、病気が実体あるもので、健康は病気の不在概念に過ぎない。
神・悪魔二元は一枚のコインで、悪魔が実体あるもので、神は悪魔の不在概念に過ぎない。
「二元論」の本質はここにあるのですから、“私は苦しい”と“私は楽しい”をそれぞれに付け分けることは不可能なのであります。
“私は苦しい”=“私は楽しい”
“私は哀しい”=“私は嬉しい”
無数の“私”が次から次へと増殖していくわけです。
唯一無二の本当の自分である“わたし”には“苦しい”=“楽しい”=“哀しい”=“嬉しい”であるのです。
般若心経の“般若”とは“大いなる知恵”のことであり、般若の面は喜怒哀楽すべてを表象している所以であります。
大いなる知恵では、“苦しい”=“楽しい”=“哀しい”=“嬉しい”ですから、“生”=“死”であり、“オス”=“メス”であり、“善”=“悪”であり、“強”=“弱”であり、“賢”=“愚”であり、“貧”=”富”であり、“幸福”=“不幸”であり、“天国”=“地獄”であり、“健康”=“病気”であり、“神”=“悪魔”の補完関係であるのです。
卑小なる知性では、“私は苦しい”VS“私は楽しい”であり、“私は哀しい”VS“私は嬉しい”ですから、“生”VS“死”であり、“オス”VS“メス”であり、“善”VS“悪”であり、“強”VS“弱”であり、“賢”VS“愚”であり、“貧”VS”富”であり、“幸福”VS“不幸”であり、“天国”VS“地獄”であり、“健康”VS“病気”であり、“神”VS“悪魔”の対立関係であるのです。
すべての要因を二律背反の対立関係にするのが、好いとこ取りの相対的一元論であり、すべての要因を補完関係にするのが、「二元論」の本質であり、「三元論」の入り口に外なりません。