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Chapter 926 言葉の正体 わたしたち人間が使っている言葉はすべてが対立関係(二律背反)で構成されている、つまり、「間違った二元論」的になっています。 「二元論」の本質は、一見対立する二つの要因が実は補完関係にあることです。 幸福と不幸は一見対立する二つの要因のようであり、わたしたちもそう思って生きているから、幸福を希求して、不幸を忌避するわけです。 「幸福」と「不幸」という言葉がある所以です。 「不幸」という言葉は厳密には「不幸福」であり、「幸福」の不在状態を示します。 「不幸」が「幸福」の不在状態とした「間違った二元論」がここに発揮されているわけです。 「幸福」が在って、「幸福」の不在状態を「不幸」とすることは、「幸福」が実在するもので、「不幸」は概念に過ぎないことになります。 しかし、実在する「幸福」なんて何処にもなく、在るのは「不幸」だけです。 つまり、「不幸」が実在するもので、「幸福」とは「不幸」の不在状態-厳密に言えば不在概念-に過ぎないのです。 「二元論」の本質は、「不幸」が実在して、「幸福」など実在しない、単に「不幸」の不在概念に過ぎないことを示しています。 それを、わたしたち人間は「間違った二元論」にしてしまい、在りもしない、単なる概念に過ぎない「幸福」を希求し、実在する「不幸」を忌避して生きているのだから、悩み・四苦八苦するのは当然です。 在るものを避けて、無いもの(不在)を追いかけているのです。 在る「不幸」を避けて、無い「幸福」を追いかけているのです。 「幸福」と「不幸」という言葉が「間違った二元論」の元凶に外ならない。 「不幸」とは「しあわせの谷間」と言い換えた所以であり、「幸福」とは「しあわせの谷間」の無い状態、つまり、「しあわせ」は「不幸」の甲・乙・丙状態に過ぎず、「しあわせ」は「谷間(不幸)」あっての物種であるのです。 「健康」と「病気」という言葉は更に酷い。 「病気」が実在するもので、「健康」という実体など何処にもなく、「病気」の不在概念に過ぎないのですから、「不病気」とすればいいのに、「健康」という空しい言葉をつくってしまったから、無い(不在の)「健康」を希求する破目に陥り、挙げ句の果てに他人(医者)任せの人生を送っているのです。 実在する「病気」は「病(やまい)」の甲・乙・丙状態に過ぎず、「病気」の不在状態、つまり、「健康」など決して無いのです。 腫れ物の丙状態が「癌」であり、乙状態が「おでき(出来物)」であり、甲状態が「納まった(治まった)腫れ物」であるだけです。 納まった(治まった)状態を、わたしたちは「健康」と言っておるだけで、いつか必ず納まらず(治まらず)に頭を擡げてくるのが乙状態であり、丙状態であり、生きている限り、つまり、運動している限り、再び、甲状態に納まる(治まる)のです。 運動が停止する、つまり、死ぬ時期がやってくれば、甲・乙・丙状態の繰り返し動作が停止するだけのことであります。 他人(医者)が病気を納める(治める)のではなく、自分が納める(治める)のです。 在りもしない「健康」という間違った言葉を希求する所以がここにあることを自覚することが肝要です。 在りもしない「幸福」という間違った言葉を希求する所以がここにあることを自覚することが肝要です。 ア(A)という音は、肉体レベル、つまり、(動き)の丙状態であり、存在の根幹に関わる動作(行為)の音です。 ウ(U)という音は、五感(想い)レベル、つまり、(動き)の乙状態であり、感性に関わる動作(行為)の音です。 ン(MN)という音は、意識レベル、つまり、(動き)の甲状態であり、知性に関わる動作(行為)の音です。 変形二元論における甲・乙・丙が、円回帰運動における甲・乙・丙とどんでん返しになっている所以でありますが、言葉を捉えずに、音を捉えることが、「間違った二元論」ではなく、「二元論」の本質を捉える鍵であります。 |