Chapter 933 “終わり(死)好ければ、すべて(生も)好し”

わたしたち人間は、“生は好いことで、死は悪いこと”と思っている。
いわゆる好いとこ取りの相対的一元論の考え方で生きています。
生の最終段階である死を悪いことと捉えている人間にとっては、生を肯定的に捉えて生きてゆくことは出来ません。
死の概念を持つ唯一の生き物・人間だけが思い悩み・四苦八苦の生(一生)を送る所以がここにあります。
死の概念とは、未だ死んだ経験が無い自分なのに、他人の死を見て自分の死を知ることであります。
他人の死を見て自分の死を知ることによって、自他の区分けが生じるわけですが、自他の区分けが生じた結果、“生(自分)は好いことで、死(他人)は悪いこと”と捉えるようになったのです。
他人という鏡を通じてしか自分を見ることのできないことを知った人間は、他人の死を見て自分の死を確信します。
未だ来ぬ未来の未経験の“悪い死”を確信します。
死の概念の正体であります。
他の生き物は死の観念を持っていますが、死の概念は持っていません。
死の観念とは、他人の死を観察することで死の実体を知ることであり、自分の死を予期することではありませんから、自他の区分けも生じないし、他人の死を見て自分の死を知るということもありません。
死の実体は、“生と死は補完関係にある表裏一体の一枚のコイン”という本質の二元論にあるのですから、“生は好いことで、死は悪いこと”という好いとこ取りの相対的一元論の生き方ではなく、生死を度外視した生き方になる。
死の観念を持つ他の生き物には思い悩み・四苦八苦が無い所以であります。
“死を悪いこと”と捉えると“生も悪いこと”と捉えるようになるのが、二元論の本質であります。
“死を好いこと”と捉えると“生も好いこと”と捉えるようになるのが、二元論の本質であります。
ところが、わたしたち人間は、“生は好いことで、死は悪いこと”といった土台無理なことを求めて生きているわけで、結果、誕生(始点)・生(円周)・死(終点)という円回帰運動という運動宇宙を貫く法則の下では、終点である死を悪いことと捉える限り、円周(過程)である生も必ず悪いことになる。
生きることを悪いことと捉えることから四苦八苦が発生するわけですが、その背景には、死を悪いことと捉えている自分がいる。
死を好いことと捉えると、生きている中で何が起こっても四苦八苦とは捉えずに、四楽八楽と捉えることができます。
何故なら、死を好いことと捉えることは、自らの死を決定する切り札を持っているのは自分に外ならない安心を持つに至るからです。
自らの死を決定するのは、病気でもない、他人(医者)でもない、外ならぬ自分であるという安心こそが切り札であります。
“死を悪いこと”と捉える思い込みが自殺のイメージを更に悪くしている。
一体誰が、わたしたち人間にこんな思い込みを植えつけたのか。
弱き生き物・人類が知性を得て地上を制覇した結果、男性(オス)社会になり、男性(オス)社会がつくった支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別制度の差別・不条理・戦争の社会こそがその張本人であります。
“終わり(死)好ければ、すべて(生も)好し”であります。
“終わり(死)悪ければ、すべて(生も)悪し”であります。