Chapter 934 “如何に死ぬか”

死を忌避した生き方をしている限り、充実した生を生きることはできない。
死の中で生を生きているのですから当然です。
生まれたその瞬間(とき)から、死への行進こそが生なのですから、“如何に死ぬか”が“如何に生きるか”の唯一最大のテーマであるのです。
“如何に生きるか”の解答は“如何に死ぬか”の中にある。
“武士道とは死ぬことと見つけたり”
葉隠れ武士道の有名な言葉であります。
武士道とは人間道に外ならない。
武士の切腹とは自殺に外ならないわけで、“如何に死ぬか”とは切腹の作法と言っても過言ではない。
切腹とは腹を切ることですが、腑を切ることであり、肝を切ることであり、丹田(太陽神経叢)を切ることに外なりません。
丹田(太陽神経叢)とは個人個人の肉体と地球延いては太陽と繋がっている橋(ブリッジ)の役目を負った器官で、わたしたちが生きているのは生命エネルギーを太陽から与えられているからであって、その生命エネルギーが個人個人の肉体に配給される場所が丹田(太陽神経叢)、つまり、臍に外ならないのです。
母親の胎内で十月十日生きている赤ん坊は、臍を通じて母親から生命エネルギーを与えられているわけで、十月十日後、母親の胎内から生まれ落ちた瞬間(とき)に臍の緒を切られると、“オギャ!”と泣くのは、自ら太陽から生命エネルギーを吸収するために、息を始める行為に外ならないのです。
腹式呼吸によって、息を丹田(太陽神経叢)に吸い込むことで、太陽からの生命エネルギーを肉体に配給するわけです。
丹田(太陽神経叢)を切ることは、太陽との橋(ブリッジ)を破壊する本当の死を意味しているのです。
脳死や心臓死は本当の死ではないことを、武士道は知っていたのです。
部分観で生きているわたしたちですが、死ぬとは全体観に戻る、つまり、円回帰することであり、全体観に戻るとは、部分と全体の架け橋である丹田(太陽神経叢)
を切ることに外ならないからです。
運動宇宙を貫く法則である誕生(始点)・生(円周)・死(終点)という円回帰運動を武士道はわかっていたのです。
死ぬとは部分から全体に戻る。
死ぬとは母なる大地(地球・太陽)に戻る。
部分が想う意識(魂)は全体の中では雲散霧消するのです。
魂は永遠不滅などと思い込んでいる限りは、“如何に死ぬか”の中にある“如何に生きるか”の解答を得ることは不可能です。
輪廻転生を信じている限りは、“如何に死ぬか”の中にある“如何に生きるか”の解答を得ることは不可能です。
自殺は最大の罪であると思い込んでいる限りは、“如何に死ぬか”の中にある“如何に生きるか”の解答を得ることは不可能です。
わたしたちが、“魂は永遠”、“輪廻転生を信じる”、“自殺は罪”と思い込まされてきたのは、わたしたちを奴隷(被支配者)として扱ってきた支配者たちの陰謀であったことに、もういい加減、気がつかなければならない。
彼ら(男性社会)の支配手法が世襲・相続の差別制度にあったことは何度も述べてきました。
差別・不条理・戦争の横行する人間社会から脱却する、つまり、平和な人間社会を構築するには、“如何に死ぬか”の中に“如何に生きるか”の解答を得るしかないのであり、自殺が死因のトップになった暁には、“如何に死ぬか”がわたしたちの人生の最大のテーマとなっていることでしょう。