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Chapter 935 死というコイン 生と死。 生と死は別々に切り離すことができない表裏一体のコインであり、しかも、死が実体あるもので、生は死の不在概念に過ぎない。 生死二元論であります。 生は「不死」概念に外ならない、つまり、映像である。 死という質のコインが在るだけで、生など無い。 コインの質が死と生という二つの質に分かれているわけではないのです。 死という質のコインがグルグル回ることによって、コインの表面と裏面が交互に表れる。 表・裏・表・裏・表・裏・・・・・・・・。 やがて表・裏の区分けができなくなり、一つの面だけが表れる。 それが生という映像の面です。 死の表・死の裏・死の表・死の裏・死の表・死の裏・表・裏・表・裏・表・裏・・・・・・生という一面の映像。 静止画フィルムをパラパラと捲ると動画面という映像が表れる。 動画面フィルムというものは無い。 在るのは静止画フィルムだけである。 死とは静止(実体)であり、生とは運動(映像)である。 実体とは在るものであり、映像とは観じる(感じる)ものである。 実体とは肉体全体で在るものであり、映像とは五観(五感)で観じる(感じる)ものである。 観るとは、見る・聞く・匂う・味わう・触ることであります。 映像を観るとは、映像を見る・聞く・匂う・味わう・触ることであります。 夢を観るとは、夢を見る・聞く・匂う・味わう・触ることであります。 見る・聞く・匂う・味わう・触るものはすべて映像に外なりません。 何故ならば、見る・聞く・匂う・味わう・触るものはすべて過去のものだからです。 過去・現在・未来という水平(量的尺度)の時間(実時間)上では、常に運動状態(観じる状態)である。 過去・現在・未来という水平時間の現在の“対岸”にある、『今、ここ』という垂直(質的尺度)の時間(虚時間)上では、常に静止状態(在る状態)である。 “対岸”と言ったのは、水平(量的尺度)の時間(実時間)軸と垂直(質的尺度)の時間(虚時間)軸とは交差していないという意味です。 “位置と運動量は同時に確定できない”とするハイゼンベルグの不確定性原理とは、平たく言えば、“静止しているものは、運動していない。運動しているものは、静止していない”という至極当たり前のことでありますが、この至極当たり前のことが実は、水平(量的尺度)の時間(実時間)軸と垂直(質的尺度)の時間(虚時間)軸とは交差していないという深淵な意味でもあるのです。 わたしたちは、観る、つまり、見る・聞く・匂う・味わう・触るものを現実(在るという静止状態)だと思っていますが、観る、つまり、見る・聞く・匂う・味わう・触るものはすべて映像(観じるという運動状態)であって、現実(在るという静止状態)は垂直(質的尺度)の時間(虚時間)軸上のものであって、映像(観じるという運動状態)は水平(量的尺度)の時間(実時間)軸上のものであって、両者は決して交差していない、つまり、対岸にある別世界なのです。 わたしたちは、映像(観じるという運動状態)の世界を現実の世界と思い込んでいます。 所謂現実(映像の運動世界)と現実(在るという静止世界)とは違うのであります。 生の世界は所謂現実(映像の運動世界)であり、死の世界が現実(在るという静止世界)であります。 死というコインがグルグル回り出すと、生という映像の面が表れますが、いつか静止すると、死のコインが再び表れるのです。 |