Chapter 940 目覚めの第五歩

“この世的成功”も“この世的失敗”も結局の処は同じであります。
“私は病気で苦しい”も、“私は病気で楽しい”も同じであるのと何ら変わりはないのです。
“私は病気で苦しい”と思っている大人になった今の私も、“私は病気で楽しい”と嘗て思った子供の時代の私も同じ私であるのですから、“病気”が原因で“苦しい”のではなく、“私”が“苦しい”だけのことであります。
“私”は“楽しい”と思える時もあったのです。
“この世的成功”も“この世的失敗”も、“この世的”であることはみな同じであるわけです。
“この世的”の“この世”とは映像の世界のことであり、夢の世界のことであり、運動の光と音(喧噪)の全体宇宙のことであり、わたしたちが現実だと思い込んでいる所謂現実の世界のことであります。
動いている世界は映像の世界に外なりません。
過去・現在・未来を流れる水平的(量的)時間の世界は映像の世界に外なりません。
朝目が醒めた瞬間(とき)-瞬間を(しゅんかん)と言わずに(とき)と言ってきた所以です-に現実だと思っていた夢が夢であったことに気づく瞬間(とき)こそが、本当の現実である『今、ここ』という静止の暗闇と沈黙の世界なのですが、すぐに再び動く夢の世界、つまり、所謂現実に舞い戻るのです。
夜眠りに就く瞬間(とき)に現実と思っていた所謂現実が夢であっことに気づく瞬間(とき)こそが、本当に現実である『今、ここ』という静止の暗闇と沈黙の世界なのですが、すぐに再び動く所謂現実の世界、つまり、夢の世界に舞い戻るのです。
所謂現実の世界と夢の世界は同じ“この世”であるのです。
夢の世界で成功しても、夢の世界で失敗しても、朝目が醒めた瞬間(とき)に夢だと気づいたら、“哀しい”も“嬉しい”もありません。
ところが、所謂現実の世界で成功したら嬉しくて、所謂現実の世界で失敗したら哀しいと思っているわたしたちはまさに間違った思い込みをしているのです。
“苦しい”=”嬉しい”=“楽しい”=“哀しい”
喜怒哀楽を顕す般若の面の“般若”こそが“知恵”である所以です。
“苦しい”=“哀しい”であり、“楽しい”=“嬉しい”と思っているのは所詮卑小な知識であります。
卑小な知識が言葉であります。
広大無辺な知恵がア(A)・ウ(U)・ン(MN)という音であります。