Chapter 941 映像人間から現実人間へ

澱んだ水を透明な水にするには、甑にかけなければなりません。
甑こそが目覚めに外なりません。
文明の触媒的役割を持った言葉が、人類の飲む水を澱ませていった結果、わたしたち現代人は意識の完全に眠った生き物に成り果ててしまった。
澱んだ水を当たり前のように飲んでいる現代人の体内にある大半の水も澱んでいるわけですから、自然の世界(宇宙の中の一部である地球の世界)で常識であることが人間社会では常識ではなくなり、人間社会で常識であることが自然の世界(宇宙の中の一部である地球の世界)では常識ではないことが、現代人にはわからないのです。
体内にある澱んだ水を透明な水にしない限り、自然の世界(宇宙の中の一部である地球の世界)の常識はわかりません。
目覚めという甑で体内にある澱んだ水を透明な水に変えない限り、わたしたち現代社会はますます差別・不条理・戦争の横行する社会になっていくでしょう。
先ずは自らの体内の水を甑にかける。
個人の目覚めであります。
更には文明の水を甑にかける。
人間社会の目覚めであります。
人間社会の目覚めは個人の目覚めなくしてあり得ません。
澱んだ水で個人も社会もどっぷり漬かった現代人間社会を、社会の方から変えることは不可能です。
人類の文化・文明に関する学問である政治・経済・社会・歴史そして言語などで澱んだ水を透明な水に変えることはできないのです。
人文科学には二種類あって、広義では政治・経済・社会・歴史・文芸・言語などが含まれ、狭義では、自然科学・社会科学に対して歴史・哲学・言語などのことを言うらしい。
そもそもこういった区分け自体が間違っているから、人間は錯覚する生き物になってしまったのです。
ソクラテスやプラトンといった古代ギリシャの時代の哲学とは学問全体を指していたのに、文明化(細分化)が進むに連れて、哲学は一学問に成り下がってしまったのです。
その元凶は言葉の進化、つまり、音の細分化に外なりません。
先ずは個人の目覚めが肝腎です。
個人の常識を目覚めという甑にかけなければなりません。
目覚めの第一歩から第五歩までが、個人の目覚めの甑であります。
個人の目覚めという甑にかけて、自分の体内にある澱んだ水を透明にすることができたら、社会の目覚めという甑は自然にかかります。
民主主義(似非民主主義)社会では、国民(一般大衆・民衆)以上の政治家は生まれないように、澱んだ水の現代人間社会では、一般大衆つまり個人以上の政治・経済・社会・歴史・文芸・言語は生まれません。
先ずは個人の目覚めです。
自分が目覚めているかどうかのバロメーターは、わからないことに対する自己の姿勢であります。
民主主義(似非民主主義)社会では、国民(一般大衆・民衆)以上の政治家が生まれない理由がここにある。
自分のわからないことは、自分の考えと違うと誤解しているから、自分のわからないことを拒絶するのです。
自分のわからないことは、自分のレベル以上のことであることが、わかっていないのです。
自分のわかることは、自分のレベル以下のことであることを、わかっていないのです。
自分のレベル以上のことを違った考えと誤解しているのですから拒絶するわけで、結果、自分のレベル以上のものは悉く拒絶する。
個人の目覚めなくして、社会の目覚めはあり得ない理由であります。
個人の目覚めなくして、政治・経済・社会・歴史・文芸・言語の目覚めはあり得ない理由であります。
他人責任転嫁型は、先ずは社会が問題だと言います。
自己完結型の人間は、先ずは個人が問題だと言います。
“神や自然に生かされている”と錯覚している人間は、他人責任転嫁型の人間です。
“自分で生きている”と自覚している人間は、自己完結型の人間です。
先ずは、プラトンの言う“洞窟”から出ることです。
先ずは、ジャングルの檻の中から出ることです。
洞窟や檻の中は不安でいっぱいです。
洞窟の外やジャングルは危険でいっぱいです。
不安は想像の世界で、どうすることもできません。
危険は経験の世界で、勇気さえあれは何とかなります。
頭でっかちの何もしないで不安いっぱいの映像人間から、体で汗を掻き危険に立ち向かう現実人間に変身することです。