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Chapter 943 生死を度外視した生き方 わたしたち現代人が寝ても醒めても意識が眠っていて、四六時中夢を観ているのは、祖先の人類の黎明期にボタンの掛け間違いをした結果であり、掛け間違ったボタンのまま現代まで至っているからです。 わたしたちは、夢(映像)を現実だと勘違いする映像人間です。 映像人間にとっての“この世的成功”とは、富や地位や名声を得ることに外なりませんから、“富は好くて、貧は悪い”ことになり、延いては、“強は好くて、弱が悪い”となり、“賢は好くて、愚は悪い”となり、富や強や賢が善となり、貧や弱や愚が悪となり、“善は好くて、悪は悪い”とする好いとこ取りの相対的一元論、つまり、間違った貧・富二元論、間違った強・弱二元論、間違った賢・愚二元論そして間違った善・悪二元論の誕生であります。 更に、善は幸福や天国へと繋がり、悪は不幸や地獄へと繋がり、挙げ句の果てに、善を神とし、悪を悪魔として、“神は好くて、悪魔は悪い”とする好いとこ取りの相対的一元論、つまり、間違った神・悪魔二元論である宗教の誕生であります。 宗教が持つ致命的な自己矛盾が神と悪魔の存在理由を明確にできない所以です。 富や地位や名声といった、“この世的成功”が、まさに人間社会で決定的な地位を獲得していったわけですが、“この世的成功”を追求する人間社会が、男性(オス)社会であるからです。 生き物の本質は子供を産むことであり、子々孫々へと自己の存在を繋げていく点にありますから、子供を産むメスが主体(主人)になるのは当然なのに、人間社会だけが男性(オス)社会になってしまった。 生き物の本来性(本質)が“弱さ”である“メス”にある中で、人間の祖先である人類は極めて弱き生き物であった故に自己防衛に腐心しなければならなかったわけで、メスが主体(主人)の生き物社会の中で、外敵に対する防衛の役割を背負っていたオスが表舞台に登場し、二本足になり知性という強力な武器を得た結果、外敵を討ち果たし、地上の覇者となった。 男性(オス)社会の誕生であります。 “オスは好くて、メスは悪い”とする好いとこ取りのオス・メス相対的一元論、つまり、間違ったオス・メス二元論の誕生であります。 外敵が最早いなくなった地上の覇者・人類の男性(オス)社会は、やがて、男性(オス)の本質である、“戦うこと”を求めて、内敵を生み出していきます。 支配・被支配二層構造社会の誕生であります。 被支配者が内敵であり、嘗て外敵であった他の生き物を家畜としたように、被支配者を家畜扱いするようになっていった。 奴隷の誕生であります。 富や地位や名声は稀少性が本質であるのは、富める者の数は少なくて、貧しい者の数は多いとする「二元論」の本質に合致します。 質的優位性(質的劣位性)と量的優位性(量的劣位性)は相反する(二律背反する)という「二元論」の本質であります。 質的劣位性を有する奴隷は量的優位性を持ち、質的優位性を有する支配者は量的劣位性を持たなければならない、つまり、支配者の数は少なくて、奴隷の数は多くなければならない。 奴隷の数を多く保つには、奴隷を死なせてはならない。 奴隷の最大の支配手段が“生かさず、殺さず”にある。 生きる苦しみを与えられた奴隷は、生からの解放としての死を憧れるのが当然です。 死を憧れる奴隷を“生かさず、殺さず”にしておくには、死を悪いものにしておかなければならなくなった支配者は、それまで信仰だったものを利用して宗教をつくりあげた。 信仰の対象であった太陽や火を神という擬人化したものに摺り変えたのが宗教であります。 太陽や火を擬人化した神が、死を悪いものだと奴隷たちに洗脳したのです。 “生は好くて、死は悪い”という好いとこ取りの相対的一元論、つまり、間違った生死二元論の誕生であります。 人類の黎明期に冒したボタンの掛け間違いが現代社会まで続けられた結果、わたしたち人間は、“生は好くて、死は悪い”という人類のトラウマを抱えて生きているのです。 “終わり(死)悪ければ、すべて(生も)悪し” 生・老・病・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦という四苦八苦の人生であります。 ボタンの掛け間違いをした人類の宿命であります。 “生は好くて、死は悪い”というボタンの掛け間違いによる束縛から、自らを解き放たない限り、わたしたちの人生は四苦八苦の連続になることは必定です。 “終わり(死)好ければ、すべて(生も)好し”、つまり生死を度外視した生き方をするしかありません。 |