第三十章 古都ピョンヤン(平壌)

高句麗は弁韓で、百済は馬韓と、もともと言われ、体つきも北部の弁韓が大きく、百済の馬韓は小ぶりであったが、そこへ騎馬民族の扶余族が入って来て高句麗も百済も扶余族という同じ先祖を持つに至ったのが、現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国である。一部同じ血を持つが気性、体格がまったく違うのは弁韓と馬韓の違いが表れている。
当時から、百済の首都は漢城(今の京城ソウル)で、高句麗の首都が平壌(ピョンヤン)である。特にピョンヤンは朝鮮半島の最古の都で、常に中華思想の中国王朝と接していたから、政策も中国王朝寄りだったのに対し、百済は南部にあった為、日本列島に渡来した者も多く、当然、政策も日本寄りであった。
その傾向は現在でも尚続いている。
しかし、朝鮮半島の人たちが、日本列島にやって来たのは百済よりも高句麗の方が先だった。
それが、日本においては高句麗系の出雲族が縄文人のルーツであり、百済系の日向族が弥生人のルーツとなっている。
似て非なる人種である所以である。
須佐之男は弁韓の血を引く高句麗の流れであるから体つきが大きい。
一方新羅は三韓時代には辰韓と呼ばれ、その血を純粋に引き継ぎ、百済と高句麗が内輪もめしている隙に乗じて唐から封冊(ほうさくと言って、唐から国王の称号を与えられること)を賜り、668年百済・高句麗を滅ぼして半島を統一した。5年遡ること663年に白村江の戦いで天智天皇は百済を応援したが、唐・新羅の連合軍に敗れて百済は滅亡していた。
半島の歴史を語る上で、高句麗と出雲、日向と百済の関係は切っても切れないものがある。しかもどちらかと言うと、高句麗の方が正統性において百済より上と言っていいだろう。
須佐之男はピョンヤンに8年ぶりに帰郷した、24才の時のことであった。
ピョンヤンは半島一の栄えた都で、唐の国の都であった長安に匹敵する大都市であった。
これも、実の親である李生成の功績であったことは否めない。
須佐之男は李生成には会おうとはしなかった。しかし、アメに会おうとすれば、どうしても李生成の耳に入ることは避けられない。
ナムチをアメへの使者として遣わし、アメとの対面を申し入れたが、アメは会おうとはしなかった。
そして代わりに李生成が出て来てナムチに会って、言った。
「フツシが帰っているのか?」と李生成から訊かれて、ナムチはすぐに嘔吐(は)いた。それほど李生成の迫力にナムチは圧倒されたのである。
「アメに会いに来たそうだが、アメはいま重い病にかかっている。ズガが死んだとき、アメはズガの死を感じたらしい。やはり双子なのだろうか、その後アメも病気になってしまった。だからわしがフツシに会おう」とナムチに伝えた。
いよいよ実の親子の関係が明らかにされようとしていた。