第五章 イナダ姫の復讐

クシの正式名は足名槌(アシナヅチ)といい、出雲が高句麗に統治される前から稲田村に居を構えていた。
妻の手名槌(テナヅチ)との間に生まれた姫を稲田からとってイナダ姫と名づけた。
縄文の昔からの土着の民で、出羽の国の坂田村から越の国を経て出雲まで辿りついた、蝦夷の一族の末裔である。
体格は、扶余一族とは対象的に背丈は低く、肌は白い。
当時の美人の典型的体躯であり、その中でもイナダ姫は群を抜いていた。
当然、ヤマタのオロチ兄弟は彼女を虎視淡々と狙っていたが、何とイナダ姫の母であり、クシの妻であるテナヅチまで手をつけようとする始末に、ズガも閉口していた。
母娘揃ってオロチの餌食になった一家は掃いて捨てるほどいて、その対象はみんな出羽や陸奥の蝦夷人だった。
フツシが出雲にやってくるまでは、大海祗(オオアマツミ)という若者の許嫁になっていたイナダだが、イナダが十六才でオオアマツミが十八才であった2年前に、オロチの長子であるイガがイナダに夜這いをかけ、オオアマツミに阻止された腹いせに、切り刻んで殺してしまったのだ。
それ以来、イガは機会あればイナダを我がものにせんと狙っていた。
ところが、フツシが半島からやって来て、オロチ兄弟に挨拶に行ったとき、イガをいとも簡単にやっつけた。
イナダは、それを聞いて以来、フツシに想いを寄せるようになった。
クシの嘘の方便が真実になってしまったのである。
フツシもイナダの美しさに一目惚れした。
それ以来、ふたりはよく宍道湖に遊びに出た。ズガがやって来たときもふたりで宍道湖に遊びに行っていた。そして、帰ると、ズガの姿を見て、イナダは隠れていたのだが、ズガはイガとはまったく違っていた。
フツシからズガのことを聞いたイナダは、オロチ兄弟でもイガとズガのあまりの違いに驚いていた。
オオアマツミがイガに切り殺されたときは、ズガはまだ十七才でイガは二十六才だった。相続権はズガにあったが、まだ十六のズガにはイガを抑える力がなかった。
ズガはそのことを悔やんでいた。
だから、フツシがイナダの許嫁と知ったとき、同じ過ちを起こさせまいと、クシの家にフツシを訪ねたのだ。
そのことを知ったフツシはますますズガに親しみと尊敬の念を強めて行くのであった。
イガはフツシがオオアマツミのようにいかなかったのを根に持って、復讐を誓っているらしいから気をつけるようにと、ズガから連絡を受けていた。
しかし、フツシとイガの二度目の対決までは、それほどの月日は掛らなかった。
狡猾なエガの悪知恵を使って、フツシへの復讐を計画して、いよいよ実行を開始したのだ。
エガは、ズガがフツシのことを気に入っていることを見抜いていた。
そこで、ズガの名でフツシを御室山(みむろやま)に呼びだした。
フツシはズガが御室山を気に入っていることを知っていたから、信じてひとりで山麓に向かった。
イガとエガが麓の大杉に隠れ、待ち伏せをしていたところへ、フツシがやって来た。
イナダはフツシがズガに呼びだされて御室山に行ったことを聞いて、罠だとすぐに悟った。オオアマツミも同じ罠にはまって殺されたからだ。
イナダはクシに、フツシを助けて欲しいと嘆願した。
「心配するでない。フツシさまは、そんなことで簡単に殺されるようなお方ではない。それより、オオアマツミの仇撃ちを見届けてまいれ」とクシに言われ、イナダは御室山に向かった。
山麓へ向かう道で、笑いながらこっちへ向かって来たフツシに出会った。
「フツシさま。無事だったのですか?」というイナダに、フツシは微笑んで言った。
「あそこの大杉を見るがいい」とフツシが指差した方を、イナダが見ると、そこにふたりの大男がぶらさがっている。
「あれは?」と聞くイナダに、フツシは言った。
「オオアマツミの仇撃ちは、あの程度でよかろう。のうイナダ姫よ!」
「はい、十分でございます。それよりフツシさまが無事でおられたことが何よりも嬉しゅうございます」
イナダは顔を赤らめながら微笑んだ。
イガとエガは3日間、御室の山麓の大杉に吊るされ、「オロチの蒲焼き」と看板を立てられた。
オロチ兄弟は怒り心頭で、クシの館に襲撃をかけると息巻いた。
しかしズガが一喝して言った。
「何故、クシの館を襲うのだ、理由(わけ)を言え!」
「フツシの仕業だからだ!」とみんなで言う。
「誰がそう言ったのか?」ズガが訊くと、
「イガ本人が言っているではないか!」とヤガがいつもの調子で大きな声を出してわめいた。
「それでは、もう一匹の蒲焼きにされたエガはどうなのか?」とズガがエガに訊くと、エガは黙って答えない。
エガの態度にヤガは訳が分からなく、ヤガはエガに叫んだ。
「フツシがふたりを蒲焼きにしたのではないのか?」
エガは考え込んだ挙句、答えた。
「そうではない。イガとわしとで我慢比べをしただけだ」
ヤガはあっけにとられて何も言えなかった。
「我慢比べにしては、自らオロチの蒲焼きの看板を立てるとは、なかなかの趣味だ」とフガは言って苦笑いした。
「それでは、一体誰がふたりを吊るしたのか?」とズガはエガに訊いたが、エガは黙っていた。
そしてみんなも黙ってしまった。
それ以来、御室山の大杉を「オロチの蒲焼き杉」と呼ぶようになった。
そして、その後、その横に「イナダの仇杉」と呼ばれる、もう一本の杉が立っている。
由来は未詳となって誰が植えたのか、伝えられていない。